キャンパスライフ 入学から卒業へ

分担執筆をした大学生向け教科書が出版されました。編者は花園大学の丸山顕徳先生です。手にとって頂ければ幸いです。

キャンパスライフ: 入学から卒業へ

キャンパスライフ: 入学から卒業へ

増刷御礼、あるいは「大きな物語」の復活?

執筆者として参加した以下の2冊が増刷になったとのこと。たいへんありがたいことです。

日本史の脱領域―多様性へのアプローチ (叢書・「知」の森)

日本史の脱領域―多様性へのアプローチ (叢書・「知」の森)


電脳中国学入門

電脳中国学入門

2003年出版の『日本史の脱領域』は6刷!、2012年出版の『電脳中国学入門』は3刷になります。いずれも教科書採用をしてくださっている方がいるとのこと。感謝申し上げます。

ちなみに『日本史の脱領域』には「データベースがもたらすもの」って題の一節を書いたんですが、日本史の資料のデータベース化が進んでますよーというのを枕にして、昨今の用語で言うところのビッグデータとそのデータマイニングの話をしています。そして、ルイジ・ルカ キャヴァリ=スフォルツア『文化インフォマティックス―遺伝子・人種・言語』における、

この本は人類の進化に関する研究を展望する。異なる多くの分野が、われわれの知見に貢献した。その知見とは、考古学、遺伝学、言語学にもとづく過去何十万年かの人類の歴史である。いまこの三分野は、幸いにして、新しいデータと新しい洞察とをつぎつぎに生み出しつつある。その成果はひとつの共通な物語へと収斂すると期待される。つまり、それらの背後にはただひとつの歴史が存在するに違いないのである。各分野にはまだ欠けるところがあるが、その穴はそれらの諸学の総合によって埋められると思われる。またそれら以外の諸科学、文化人類学、人口学、経済学、生態学、社会学などもこの研究に加わって、解釈をすすめるための柱となりつつある。(下線引用者)

という一文を引きながら、データマイニングの技術が進めば、やがて「「大きな物語」の復活」につながるんじゃね?みたいな話もしています。おお。

文化インフォマティックス―遺伝子・人種・言語

文化インフォマティックス―遺伝子・人種・言語

なんか『閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・民主主義』で言われる、急速なアルゴリズムの発達により、ユーザが見たい情報だけが選択されてユーザに見せられる所謂「フィルターバブル」的なことを、先取りして議論しようとしているようにも見えます。この文章を書いたときには夢の様な話だった企業によるユーザの行動履歴の収集が、今は当たり前ですもんね(その道具立ては、RFIDタグとかユビキタス・コンピューティングとかではありませんが)。

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

もっとも、私の書いたものに、多少なりとも先見の明みたいなものを感じられるとすれば、それは私が依拠した他の論考のおかげです。そもそも「先見の明」なんて、未来人の後知恵にすぎないのかもしれませんが。

最近読んだ本

春休み、という名称からは程遠い忙しい毎日ではあるが(そもそも大学教員にとって、長期休暇期間は繁忙期なのである)、それでも充電をしておかなければと思い、積読本を少しずつ消化している。最近読んだ仕事に直接関係がない本は、以下のとおり:

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

本書を昨今の反原発デモの盛り上がりを背景に書かれた本だと見れば、昨年の印仏学会で「震災と仏教」なるパネルを司会した者にとっては「仕事の本」の一つになるのかもしれない。

小熊英二氏らしい分厚い新書であるが、さくっと読める(ので、単純すぎないか?本当にそうかな?と思う箇所はけっこうある)。私は、学生時代からちょこちょことデモに参加していて、反原発デモにも何回か参加したことがあるのだが、そういう自分の活動(といえるほどのものではないが)の歴史的・思想史的な位置づけを大ざっぱに確認できたのは収穫であった。

たまには小説も、ということでハードSF。

ウロボロスの波動 (ハヤカワ文庫 JA)

ウロボロスの波動 (ハヤカワ文庫 JA)

人工降着円盤をはじめとするハードSFな設定に注目が集まるところだろうが、『なめらかな社会とその敵』をパラパラ流し読みしていたからか、個人的にはむしろAADDという組織(というか社会)のあり方に興味を持った。

ということで、全然積読本は消化できていない。

最近観た映画

最近は忙しくなってすっかり映画もご無沙汰である。最近劇場で観た映画をいくつか。


台北カフェ・ストーリー 予告編


映画『月世界旅行』『メリエスの素晴らしき映画魔術』予告編


フクシマからの風 劇場予告篇HD

最近はフィクションよりノンフィクションのほうが観たい気分。京都みなみ会館で予告編を観ているからか。

風流あじろ笠

少林寺拳法に関係する、と聞いて読んでみたが、あまり関係なかった。

風流あじろ笠 (徳間文庫)

風流あじろ笠 (徳間文庫)

清国で少林寺派の拳法を学んだ、という虚無僧が主人公。しかし、拳法の達人というだけで、喧嘩の描写にも少林寺拳法っぽいところはない。まあ、そういう意味では期待はずれ。

しかし、時代小説としてはなかなかに面白かった。江戸初期のかぶき者、旗本奴と町奴の抗争などは、高倉健の仁侠映画に出てくるような古いヤクザと新しいヤクザとの対比などを思い起こさせ、その手のものが好きな人は楽しめるだろう。後半で江戸の大火(天和の大火?)からの復興を指揮する主人公が描かれるが、これは先の東日本大地震における仏教界のボランティア参加などを思い出させて、また別の感慨があった。

プロレス、あるいは虚実の間

2007年に発表した(プロレスの虚実をめぐる二、三の事柄 - moroshigeki's blog)フィクション論的プロレス論が、「プロレス、あるいは虚実の間」という題で活字になりました。

フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間

フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間

基本的には入不二基義さんの「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」をベースにしたもので、真新しい議論はほとんどありません。

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

新しい論点を強いてあげるとすれば、プロレスにおける「本当(シュート)かどうか」は、リングの上だけでなく、リングの外においても発生するのであり、ファンはそれを含めて楽しんでいるのではないか、というようなことを書いてみました。

…プロレスは演劇とよく似ている面があると言えるだろうが、一方で演劇とは異なる面も存在する。たとえば、ある演劇の舞台で殴り合いの格闘シーンがあったとしよう。台本上はやっつけられるはずの悪役の演技のパンチが、たまたま主人公にクリーンヒットしてしまい、主人公が舞台上で失神してしまったとする。演劇においてこれは事故であり、場合によっては芝居が中止され、役者も観客もフィクションの世界から現実に引き戻されることになる。しかし「試合」が行われている(ことになっている)プロレスのリング上では、そのような事故と演技との区別は非常に難しい。しばしばレスラーは互いに「二度とリングに立てないようにしてやる」「ぶっ殺してやる」というようなお決まりの罵詈雑言を投げつけ合うが、実際に復帰が難しいほどの大きなケガをリング上でしたり、ときには死に至ったりもするのである。

さらに言えば、レスラーどうしやレスラーと興行主、興業会社間の関係悪化などが原因で、あるいはもっと単純にレスラーが相手の攻撃にカッとなったりして、あらかじめ決められたブックやアングルが破られる(守られない)、ということも起こる。一方のレスラーがブックを破って実際の格闘技のように真剣勝負を始めてしまうことを「シュート(セメント)を仕掛ける」などと言うようだが、プロレスの興業のなかにはシュートを仕掛けているように見せかけたブック、アングルというのも存在するため、右の「事故」同様、観客がリング上で起きている試合をシュートなのかそうでないのかを区別するのは困難である。

ご笑覧頂ければ幸いです。

我が師 折口信夫

芳井敬郎先生に教えてもらった。

わが師折口信夫 (朝日文庫)

わが師折口信夫 (朝日文庫)

折口信夫の同性愛の対象となった、弟子・加藤守雄氏が、唇を奪われて脱走したり、住み込みの助手になったり、また迫られて逃げ出したり…という体験を綴った本。余計な本を読んでる暇のないこの忙しい時期に、ついつい一気読みをしてしまった。国学院大学出身の民俗学者である芳井先生からは、「折口先生」の男色ネタをほかにもいろいろ聞いており(今生きておられる大先生とかの名前も)、折口信夫とその作品に対する見方ががらっと変わるすばらしい本である。

あと細かいところでは、加藤守雄氏は井筒俊彦先生と慶応大学の同期だったそうで、ちょっとしたエピソードも書かれている。最初は二人とも経済学部志望だったが、途中で文学部志望となり(井筒俊彦氏は言語学志望だったが、慶応にはなかったので英文学ににしたとのこと)、転向記念に簿記のノートをいっしょに川に捨てたりしたらしい。