プロレスの虚実をめぐる二、三の事柄

京大人文研の共同研究班虚構と擬制―総合的フィクション研究の試みで発表。

アメリカのメジャー団体が株式上場に際して公式に「シナリオ」の存在を認めたり、「試合の勝ち負けなどについて「事前の取り決め」があった」ことを東京地裁に認定されてしまったりしている昨今、プロレスの虚実をめぐる議論は以前とは様変わりしつつある。

日本では「八百長」、アメリカでは“fake”などと呼ばれることの多い、ある種のフィクション性を含むプロレスのあり方については、ロラン・バルトの「レッスルする世界」において「神話」の一例としてとりあげられて以来、(多数のファンクラブ的な、あるいはジャーナリスティックな議論とは対照的に)少数ではあるが、社会学者、哲学者らによって理論的な考察がなされてきた。

本発表では、これまでの研究を概観することで、「ジャンルの鬼っ子」などとも言われるプロレスの表現における独自性のようなものを考察できればと思う。

プロレスの発表なんてしたことがないので、全然しゃべれないだろうなと思っていたのに、予定時間をオーバーしてしまう(相変わらず時間配分がヘタクソである。反省)。