最近は忙しくなってすっかり映画もご無沙汰である。最近劇場で観た映画をいくつか。
最近はフィクションよりノンフィクションのほうが観たい気分。京都みなみ会館で予告編を観ているからか。
少林寺拳法に関係する、と聞いて読んでみたが、あまり関係なかった。
清国で少林寺派の拳法を学んだ、という虚無僧が主人公。しかし、拳法の達人というだけで、喧嘩の描写にも少林寺拳法っぽいところはない。まあ、そういう意味では期待はずれ。
しかし、時代小説としてはなかなかに面白かった。江戸初期のかぶき者、旗本奴と町奴の抗争などは、高倉健の仁侠映画に出てくるような古いヤクザと新しいヤクザとの対比などを思い起こさせ、その手のものが好きな人は楽しめるだろう。後半で江戸の大火(天和の大火?)からの復興を指揮する主人公が描かれるが、これは先の東日本大地震における仏教界のボランティア参加などを思い出させて、また別の感慨があった。
2007年に発表した(プロレスの虚実をめぐる二、三の事柄 - moroshigeki's blog)フィクション論的プロレス論が、「プロレス、あるいは虚実の間」という題で活字になりました。
基本的には入不二基義さんの「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」をベースにしたもので、真新しい議論はほとんどありません。
新しい論点を強いてあげるとすれば、プロレスにおける「本当(シュート)かどうか」は、リングの上だけでなく、リングの外においても発生するのであり、ファンはそれを含めて楽しんでいるのではないか、というようなことを書いてみました。
…プロレスは演劇とよく似ている面があると言えるだろうが、一方で演劇とは異なる面も存在する。たとえば、ある演劇の舞台で殴り合いの格闘シーンがあったとしよう。台本上はやっつけられるはずの悪役の演技のパンチが、たまたま主人公にクリーンヒットしてしまい、主人公が舞台上で失神してしまったとする。演劇においてこれは事故であり、場合によっては芝居が中止され、役者も観客もフィクションの世界から現実に引き戻されることになる。しかし「試合」が行われている(ことになっている)プロレスのリング上では、そのような事故と演技との区別は非常に難しい。しばしばレスラーは互いに「二度とリングに立てないようにしてやる」「ぶっ殺してやる」というようなお決まりの罵詈雑言を投げつけ合うが、実際に復帰が難しいほどの大きなケガをリング上でしたり、ときには死に至ったりもするのである。
さらに言えば、レスラーどうしやレスラーと興行主、興業会社間の関係悪化などが原因で、あるいはもっと単純にレスラーが相手の攻撃にカッとなったりして、あらかじめ決められたブックやアングルが破られる(守られない)、ということも起こる。一方のレスラーがブックを破って実際の格闘技のように真剣勝負を始めてしまうことを「シュート(セメント)を仕掛ける」などと言うようだが、プロレスの興業のなかにはシュートを仕掛けているように見せかけたブック、アングルというのも存在するため、右の「事故」同様、観客がリング上で起きている試合をシュートなのかそうでないのかを区別するのは困難である。
ご笑覧頂ければ幸いです。
芳井敬郎先生に教えてもらった。
折口信夫の同性愛の対象となった、弟子・加藤守雄氏が、唇を奪われて脱走したり、住み込みの助手になったり、また迫られて逃げ出したり…という体験を綴った本。余計な本を読んでる暇のないこの忙しい時期に、ついつい一気読みをしてしまった。国学院大学出身の民俗学者である芳井先生からは、「折口先生」の男色ネタをほかにもいろいろ聞いており(今生きておられる大先生とかの名前も)、折口信夫とその作品に対する見方ががらっと変わるすばらしい本である。
あと細かいところでは、加藤守雄氏は井筒俊彦先生と慶応大学の同期だったそうで、ちょっとしたエピソードも書かれている。最初は二人とも経済学部志望だったが、途中で文学部志望となり(井筒俊彦氏は言語学志望だったが、慶応にはなかったので英文学ににしたとのこと)、転向記念に簿記のノートをいっしょに川に捨てたりしたらしい。
夏ということで、ちびたちを恐怖のどん底に叩き落とすために購入したが、あまり怖くなかった (^_^;)
本書のタイトル『世界の心霊写真 カメラがとらえた幽霊たち、その歴史と真偽』に「歴史と真偽」とあるように、本書は心霊写真の多くが捏造である、ということを実例をあげながら淡々と解説する。日本によくある、やたらと恐怖を煽り、読んだたら祟られるぞ〜的なオーラを発している心霊写真本とは一線を画している。特に秀逸なのは、インドの寺院の上に、象の形をした雲が浮かんでいる写真である。雲がいろいろな形に見える、というのはよくあることであり、それを誰も心霊現象だとは思わない。しかし、それがある宗教的、オカルト的文脈になると超自然的な力によってそのような形に雲がなった、と解釈され、心霊写真扱いされるのである(雲の形を見て、天国のおじいさんからのメッセージだ、などと思う人はいるだろうと思う。それに似ている)。筆者は、心霊写真における読者の心性の本質として、このような読者による読み取り能力(物語り化能力)をあげる。我田引水すれば、マンガにおけるキャラ/キャラクター論などにも通底する問題である。
一方で心霊写真研究者である筆者は、写真撮影のトリックや、上記のような読み取り能力などでは説明できない心霊写真がある、という。その残余を「心霊」とするのかどうかについては判断を保留しているものの、本書が心霊写真の本であることがその残余部分で表現されているのである。
久々に仕事に関係のない本を読んだ。
まったく同じ地域に二つの国家が重なっていて、それぞれの国民はもう一方の国を「見ない」ふりをしながら生活をしている、という舞台設定で、このSF=ミステリ小説の面白さは決定したようなものだと思う。それぐらい魅力的な設定である。そして実際に面白かった。帯に「カフカ=ディック的」みたいなことが書いてあったけど、確かにSF的にも(前述のとおりSF的設定が魅力的)、ミステリ的にも(この小説は、殺人事件を追いかける刑事が主人公)、(言語の用い方を楽しむ)小説的にも楽しめる作品である。
ただ残念ながら、翻訳がいまいちな気がする。原典を当たっていないが誤訳っぽいところもあったし、訳文もこなれていない感じ。あと、非常に初歩的な誤字脱字(博士「課程」を博士「過程」とか)なども見られ、そういうのはやはり興を削ぐものである。なんとかならないものかなぁ。
ありがたいことに、好評のようです。増刷しました。
この手の本の常として、どんどん情報が古くなっていくというリスクはあるのですが、それでもここまでの情報を一冊で取得できるのは本書の強みかと思います(増刷時に訂正も入っています)。中国学が専門ではない私も、だいぶ勉強させてもらいました。東アジアの文化や社会を研究対象としている人には、有益なのではないかと思います。
Amazonでもコンスタントに在庫があるようになりましたし、書店で見かけたりしたらお手にとって頂ければ幸いです。