論集文字 第1号 改訂版: 漢字の現場は改定常用漢字表をどう見るか

そういえばこちらでの告知を忘れていました。以前、電子書籍として出版した文字研究会の『論集文字』第1号ですが、紙の書籍としても出版されました。

論集文字 第1号: 漢字の現場は改定常用漢字表をどう見るか

論集文字 第1号: 漢字の現場は改定常用漢字表をどう見るか

私の書いた「【資料紹介】漢字出現頻度数調査」についてはほとんど変更なしですが、他の方のものについてはいろいろ書き換わっているところもあるみたいです。こちらもお手にとって頂ければ幸いです。

からだの文化―修行と身体像

2年前のイベント(仏教の修行マニュアルに見る「身体」イメージ - moroshigeki's blog)でしゃべったことが、本になりました。

からだの文化―修行と身体像

からだの文化―修行と身体像

自分で言うのもなんですが(しかも、まだパラパラめくっただけですが)、武道・格闘技や修行論、身体論などに関心がある人には、たいへんおもしろい本なのではないかと思います。目次は以下のとおり:

  • 夏目房之介マンガにおける修行イメージの伝承」
  • 師茂樹「修行マニュアルを読む―『天台小止観』を中心に」
  • 李保華・野村英登「馬貴派八卦掌と易筋経」
  • 大地宏子「日本近代のピアノ教育における身体イメージ」
  • 野村英登「丹田で歩く―身体イメージがつなげる哲学、信仰、養生、芸能」
  • 山田せつ子「からだを見つける―ダンスが見つかる」

夏目先生の論稿は図版たっぷり(田河水泡『神州櫻之助』「天狗の巻物」『のらくろ武勇談』、宮尾しげを『孫悟空』、山川惣治『少年王者』、手塚治虫「勝利の日まで」「幽霊男」、杉浦茂『少年児雷也』、福井英一『イガグリくん』、福井英一〜武内つなよし赤胴鈴之助』、貝塚ひろし『くりくり投手』、白土三平『忍者人別帳』『忍者武芸帳』、梶原一騎川崎のぼる巨人の星』、梶原一騎ちばてつやあしたのジョー』、宮谷一彦『肉弾時代』、山口貴由覚悟のススメ』)で、戦前から現代に至る身体と修行のイメージを追いかけています。

私のは『天台小止観』の分析を通じて、修行者がどのように身体内部の状態を獲得し、コントロールしていくのか、というような内容。修行者は自身の身体内の状態を認識することができないので、夢見を行ったり、観仏体験をしたり、師匠に聞いたり、と様々な方法を使って確認をしていき、また心の制御においては姿勢や呼吸といった身体の操作を用いる、みたいなのをざっくり紹介しました。

以前、花園大学でもワークショップをしていただいたことのある馬貴派八卦掌の李保華先生の文章が日本語で活字化されているのは、何度か耳にしている内容とはいえ(だからこそ)個人的にとてもうれしいです。

大地宏子さんの論稿は、タイトルからはなかなかわかりませんが、大リーグボール養成ギブスのような機材や、『巨人の星』のようなスパルタ教育が、ピアノの世界に存在していた、というインパクトの強い内容です。これもオススメ。

野村さん(id:nomurahideto)の論稿は、丹田の文化史とでもいうべき興味深い内容。「東洋においては身体もまた表徴の帝国であり、その中心に丹田が存在するわけです」という最後の一文は、「表徴の帝国」をどのように捉えるかによって評価が分かれるような気もしますが、身体論を一種の記号論・言語論的なスキームで捉えようというのであれば展開を期待したいところです(たとえば、目という器官さえあれば見ることができるわけではなく、視覚の文法のようなものがなければ物が見えないように、身体の内部、表面的ではない状態を「見る」ためには、記号の体系(言語的分節のための法則)が必要…みたいな感じ?)。

最後の山田せつ子先生のワークショップの報告は、イベント当日に体調不良で参加できなかっただけに(超残念)、活字化されるのを待っていました。不参加が悔やまれます。

ということで、お手にとって頂ければ幸いです。

 

武道のリアル

押井守氏による武道本ということで読んでみた。

武道のリアル

武道のリアル

押井守氏も、50歳を過ぎてから、作家・今野敏氏主催の空手道 今野塾で空手を始めたという。私もおっさんになってから少林寺拳法を始めたので、押井氏の武道に対する関心の持ち方に共感するところが多い(偶々かも知れないが今野氏の武道観は少林寺拳法のそれと重なる部分が少なくないようにも思う)。押井氏や私のように、資料集めとかが好きで、理屈を捏ねるのが趣味な人にとって、武道というのはたいへん楽しいのである。

最近、私自身のテーマは膝なので(力を抜いたり絞ってみたり)、本書で今野氏が膝を強調しているのはちょっと気になる。今野塾のDVDが観たくなった:

今野敏 沖縄空手 首里手の探求 [DVD]

今野敏 沖縄空手 首里手の探求 [DVD]

祖師映画を観たい

ウド鈴木が若干不安な映画『一遍上人』が公開間近ということで、これまでやろうやろうと思ってやっていない、仏教の祖師をテーマにした(日本)映画の絨毯爆撃を、また最近やりたくなってきている。

やっぱ釈尊から:

釈迦 [DVD]

釈迦 [DVD]


手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく【DVD】

手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく【DVD】

海外だと『少林寺 達磨大師 [DVD]』、『玄奘大師-DVD』などがあるけど。

日本仏教の祖師たち(古代):

天平の甍 [VHS]

天平の甍 [VHS]


空海 [DVD]

空海 [DVD]

ドラマだけど、NHKの『聖徳太子 [DVD]』とか『大仏開眼 [DVD]』とかも、古代史に挑んだチャレンジ精神は買いたい。玄昉が出てくるドラマを見られるとは思ってもみなかった。

日本仏教の祖師たち(中世):

日蓮 [DVD]

日蓮 [DVD]


日蓮と蒙古大襲来 [DVD]

日蓮と蒙古大襲来 [DVD]


禅 ZEN [DVD]

禅 ZEN [DVD]


親鸞 白い道 [DVD]

親鸞 白い道 [DVD]

他にもあったら教えて下さい。

P. S. 仏教系映画: 大谷大学仏教学科blogにいくつか列挙されていた。

「電子書籍のつまらなさ」ではなくて「電子書籍をめぐる議論のつまらなさ」

先日、電子書籍をめぐる議論のつまらなさ - もろ式: 読書日記というエントリを書いたのだが、はてブTwitterなどでの反応を見ていると、ちょっと誤解を生じてしまったようである。私は、今のインタラクティブ性のない(紙の書籍の延長線上にある)電子書籍がつまらない、と言いたいのではなく、電子書籍をめぐる現在の日本での議論がつまらない、と言いたいのである。

言うまでもないことだが、電子書籍のおもしろさ/つまらなさは、インタラクティブ性の有無とは関係がない(実際、『ユリイカ』の原稿でもほのめかしたことであるが、80〜90年代の様々な試みは一発芸的で、冷静に考えるとつまらないものが多かったようにも思う)。おもしろい作品は紙だろうと電子だろうとおもしろいし、つまらないものはどんなに先進的な技術を使っていてもつまらない。各メディアの特性を使っておもしろい作品を作る人はいるが、誰もがそのメディアを使えばおもしろい作品を作れるわけではない(逆に、過去の試みがうまくいかなかったとしても、これからインタラクティブ性のあるおもしろい電子書籍が作られるかもしれない)。

ただ、80〜90年代のデジタルテクストをめぐる海外(特に英語圏)での議論には興味深いものが多かったし、今でもおもしろいものが出ているように思う。そして繰り返しになるが、ある人の間テクスト性をめぐる議論がおもしろかったとしても、そこでとりあげられている間テクスト性を意識した作品がおもしろくない場合があるように、作品やメディアのおもしろさとその作品・メディアをめぐる議論のおもしろさとは独立したことである。かつての『ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール』や『ハイパーテクスト―活字とコンピュータが出会うとき』、最近のだと『Avatars of Story (Electronic Mediations)』などはけっこうおもしろいと思ったし、特にデジタル教科書をめぐる議論においては現在でもかなり有効だと思うのだけど、日本の電子書籍をめぐる議論のなかではそれらが参照されていない(ように見える)、というか忘れられている感さえあるのはつまらないなぁ、というのが先のブログにおける主張である(もしデジタル教科書のインタラクティブ性等に関する研究において、これらの先行文献が参照されている例があればご教示頂ければ幸いです。とっくに批判されてるよ〜というのでもOKです)。

電子書籍をめぐる議論のつまらなさ

AppleiBooks Authorを発表したが、「教科書」というキーワードを前面に出しているためか、所謂「電子書籍元年」の盛り上がりと比べると、いまいち話題になっていないような気がする。しかし、マルチメディアやインタラクティブ性を持つデジタル教科書、電子教科書とは、ある意味、広い意味での電子書籍(以下、マリー=ロール・ライアン氏の言葉を借りてDigital Narrative Textと言うことにする)の歴史を概観すれば、きわめて正統な継承者であるように、私には思われる。

以前、拙稿「なかなか変わらない世界―Digital Poetryに寄せて」(『ユリイカ2011年10月号 特集=現代俳句の新しい波』)や「電子書籍の/とインタラクティヴィティ」(『東洋学へのコンピュータ利用 第23回研究セミナー』、2012年3月)でも書いたことであるが、日本における電子書籍の議論は、Digital Narrative Text全体の議論から見れば、ごく一部分についてのみ語られているような気がしてならない。「電子書籍の/とインタラクティヴィティ」の冒頭部分を引用しておこう。

2010年に人口に膾炙した「電子書籍元年」、そして2011年に公開されたEPUB 3 によって、日本国内における電子書籍イメージについての共通認識が固まりつつあるように思われる。そのイメージとは、特にEPUB 3の公開において縦書きなどの日本の組版に対応したことが大きく喧伝されたことからもわかるように、要するに“紙の書籍の電子版”とでも言うべきものである。全文検索や音声自動読み上げなどによってより読書が多様化するだろうし、絶版がなくなったり読みたい本がダウンロードで即座に手に入るようになったりするのも従来の読書のあり方を変えることかもしれない。また、AmazonAppleなどによる自費出版サービスは、無名の作家を世に送り出すことを容易にするだけでなく、研究者による学術同人誌や大学の研究論文集などの出版にも福音をもたらすかもしれない。しかしこれらはいずれも紙の書籍の延長線上にある考え方であって、電子書籍特有のメリットかと言われるとそうではないように思われる。

一方、個人用のコンピュータが普及しはじめた1980年代、あるいはインターネットが注目されるようになった1990年代から現代に至るまで、コンピュータというメディアによってはじめて可能になる文学(的)作品が登場し、少なからぬ量の作品が流通し読者(プレイヤー)を楽しませている。しかしながらこれらの作品は、文学的要素を持っているにもかかわらず、電子書籍とは異なるコンテンツやアプリケーション・ソフトウェア(典型的にはゲーム)として区別されている。たとえば、「ハイパーテキスト小説」を自称する井上夢人『99人の最終電車』電子書籍と呼ぶ人はあまりいないだろうし、ストーリーを追いかけるだけでインタラクティヴ性がほとんどないソフトウェアに対する「ノベルゲーム」という折衷的な呼称は、この曖昧な状況をよく表しているように思われる。“紙の書籍の電子版”であることが悪いと言いたいのではなく、そのような限定されたイメージが普及し固定化することによって、電子書籍による表現の可能性の幅を狭めたり、電子書籍というメディアの持つ表現の固有性を隠蔽したりすることになるのではないだろうか、と思うのである。

このような見立ての一つの傍証として、村上龍氏の電子書籍『歌うクジラ』をとりあげたい。この作品では、坂本龍一氏の音楽などが組み合わされたことで話題となったが、そのオフィシャルサイトにおいて村上龍氏は「「小説のために作られた音楽」というのは、ひょっとしたら歴史上はじめてかも知れないと思ったのだ」と述べているのである。村上龍氏のなかでは、1980年代、90年代において盛んに作られたマルチメディア文学等の取り組み、あるいはその1980、90年代の取り組みの子孫に当たるアドベンチャーゲームやノベル(≒小説)ゲームが、「小説」とは異なるものとして観念されているのであろう。このような意識は、電子書籍があくまで紙の書籍の延長線上でとらえられており、マルチメディアやインタラクティブ性というものが電子書籍の議論では中心にならない、というのとパラレルな気がしてならない。

同じように、日本において論じられる電子書籍のメリットは、紙の書籍との比較しての議論がほとんどである。たとえば「指定されたページは存在しません」においては、「紙版の書籍に対して電子書籍のメリットはどのような点だと思いますか」という質問が設定されており、項目として上がっているのは次のものである。

  • 動画なども利用したリッチなコンテンツ
  • 物理的な保管場所を節約できる
  • いつでも購入できる
  • 書店に行く手間が省ける
  • 絶版本や手に入りにくい本も手に入る
  • 持ち運びが便利
  • 検索機能が使える
  • 在庫切れがない
  • 文字が見やすい
  • 書籍より安い
  • ブックマーク(しおり機能)がある
  • アノテーション(線を引いたり書き込んだりする機能)がある
  • そのほか

もちろん、紙の書籍自体たいへん発達したメディアであり、その特性を電子書籍においても再現しようという努力はすばらしいものである。しかし、紙の書籍のプラスアルファではない、紙の書籍とはまったく異なる電子書籍独自の読書体験、あるいはコンテンツ作成についての議論は管見の範囲ではほとんど見られないように思われる。

一方、海外、というか英語圏では、紙の書籍の延長線上にある(日本で観念されるような)電子書籍に加えて、Interactive Fiction(日本でいうテキスト・アドベンチャー・ゲーム)をはじめとするインタラクティブな文学(的)作品が現在でも作られ続けており、しかもそれらがDigital Narrative Textというような言い方で一括して捉えられ、分析の対象となっている、という歴史がある。そこでは、紙の書籍との比較においてではなく、電子テキストをはじめとする所謂「ニューメディア」の理論的な研究も積み重ねられており、たとえばDigital Narrative Textにおけるインタラクティブ性を分類するとどのような種類があるのか、といったような議論*1が様々に見られる。日本と海外(英語圏)の議論を比較したとき、明らかに後者のほうが電子書籍の豊かな歴史と可能性について議論をしているように思われる一方、前者がいつまでも紙の書籍との比較に拘泥していること*2にある種のつまらなさを感じてしまうのである。

そして、冒頭にも述べたが、AppleiBooks Authorで「教科書」を売りだそうとしているのは、電子教科書、デジタル教科書が、マルチメディアやインタラクティブ性などを持つDigital Narrative Textの後継者のひとつであり、しかもそのなかで大きなビジネスとして成立しそうな分野だからであろう(Interactive Fictionなどは、先に述べたように現在でも作られ続けているが、残念ながらビジネスとしては今のところ発展しそうにない。良くも悪くもアマチュア的な世界になっているように見える*3)。言い換えれば、iBooks Authorは、Digital Narrative Textをめぐる議論の積み重ねの上に出てきたものであり、紙の書籍の延長線上にある電子書籍と、ノベルゲームやデジタル教科書とを分離して考えてしまう日本の議論の土壌においては、その意義は理解しにくいのではないだろうか。

*1:例えばMarie-Laure Ryan. Peeling the Onion: Layers of Interactivity in Digital Narrative Texts など。

*2:実はInteractive Fictionなどについての議論は、日本においては東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)』などに見ることができる。これについてはいずれブログ上でも論じたい。

*3:このあたり、日本のノベルゲーム市場が同人ゲームと密接に関係していることと関連するか。要考察。