仏教の修行マニュアルに見る「身体」イメージ

五姓各別説の研究から始まり、菩薩戒における観仏体験の問題などを経て*1、最近手探りで進めているのが仏教における修行と身体の問題である。文献ベースの思想史研究などと違って定番の方法論があるわけでもなく、またこの手の話題を発表するような場もなかなかないので、本当にこれでいいのかと自問自答しながら、内輪の研究会などで発表を重ねている状況なのであるが、17〜18日に開催された「からだの文化 ―修行と身体像― 身体訓練の伝達を身体と言語・イメージの関係において考える2日間」というイベントに企画段階から参加させていただいくことができ、また一歩進むことができた(イベントの企画においては守岡知彦さんや近藤秀樹さんに大変お世話になりました。ありがとうございました)。イベントの案内はこちら:

イベントの報告や感想については、以下のブログを参照:

イベント全体の雰囲気や成果については概ね上の各エントリに書いてあるとおりなので、それほど付け加えることはない。多くの出会いがあり、たくさんの論点が提出されるとともに、いろいろな概念が整理されたりもして、一言で言えばとても充実したイベントであった。

あえて不満点をあげれば、今回のイベントのテーマのひとつに、修行において師匠と弟子とのあいだで交わされる(あるいは一方的に伝えられる)身体内部の状態や変化に関する言葉の問題があったわけだが、そのテーマが少し拡散してしまったような印象がある。最後のディスカッションのところでも少しコメントしたのだが、修行と身体という問題系においては、当然近代なりアジアなりといったコンテクストの問題が重要であるのは間違いないのだが、一方でコンテクストを超えて修行とその達成とが反復されるという側面*2もまた無視することができない。身体のイメージとその(主に言葉による)伝達というのは、その両方に関わってくるわけだが、私以外の報告者のネタが、あまりにも近代について語るのに魅力的すぎて、近代というコンテクストの問題だけに関心が集まってしまったように思われるのである。

ちなみに私の発表「仏教の修行マニュアルに見る「身体」イメージ
 ―『天台小止観』を中心に―」は、『天台小止観』を題材にしつつ、外から見える客観的な(他者の)身体とは別に、修行者が内側から見ている、必ずしもはっきりとは見えない「身体」のイメージがあり、それは概ね外側から見える身体と重なるけれども、時にはそれとずれたりもする、というようなことを指摘した。二重の身体、みたいな感じである。

天台小止観―坐禅の作法 (岩波文庫 青 309-3)

天台小止観―坐禅の作法 (岩波文庫 青 309-3)


私の発表だけでなく、夏目先生、野村さん、大地さんの発表も、それぞれ上に述べたテーマに関わる問題を扱っていたと思う。近いうちに、今回のイベントを何らかの形でまとめる作業に入ると思うのだが、その際には総括のディスカッションをしましょうということを提案しておいたので、そのあたりでこのテーマに関わる形で総括できればいいな、とも思っていたりする。思い切って近代によせちゃうのもおもしろいと思うけど。

*1:[http://moromoro.jp/morosiki/resources/200803Kannon.html:title]

*2:ほうじょうさんが書いてくださった「シンボルと身体の問題やイコンの背景に確実に存在したロゴスの問題」は、この問題を考える上で重要だと思っていたりする。