観仏(菩薩も可)体験者募集中

授業がはじまってすでに2週間が過ぎた。金曜日は朝から3コマあり、終わった時には疲労困憊、吐き気を催す。げぼー。

ところで3コマの最初、1講時目は大学院の授業で、テーマは「観仏信仰の研究/コンピュータを用いた仏教学の研究方法」。シラバスにはこんなことを書いている。

観仏信仰とは、瞑想(座禅)や睡眠あるいは通常の意識状態の時に仏や菩薩の姿を見ること(観仏)を重視し、それを求める信仰のことで、浄土教や菩薩戒、唯識思想、初期禅宗などをはじめとして、経典や史伝、説話集、絵画資料など、インドから東アジアにわたって広く見られるものある。従来の実証主義的な方法論ではこのような所謂神秘体験についての議論を忌避する傾向にあったが、近年様々な方法論的開拓が行われ、研究者の注目を集めつつある。本講義では方法論の問題を論ずるとともに、このような既存のディシプリンを横断するような研究対象においてはコンピュータを用いた研究が有用であるため、その方法についても検討する。

今年は4人の受講生がいるが、こういうテーマであるためか神秘体験に対して強い興味を持っている人が多い。内1名は実際に観仏体験をしており、病気のとき1ヶ月間阿弥陀仏が毎日現れて励ましてくれたという経験を話してくれた。以前にも、座禅の最中に観仏体験をした学生や、高僧の神通力を見た学生などが受講しており、そういう人(ちなみに、現在のところ全員留学生)がいると授業がとても豊かになる。というわけで、観仏体験をした人、その他神秘体験をした人、絶賛募集中 (^_^;;

今日は、拙論「五姓各別と観音の夢」(もうすぐ出るはずの『佛教史学研究』に載る予定)でも紹介した『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』の記事を紹介しながら、観仏スポットになることが多い山についての再考を促した。最初、受講生諸君に「お坊さんにとって山ってどんな場所?」って聞いたら「瞑想にふさわしい静かな場所」「試練の場所」「神秘的な場所」みたいな意見が出た。しかし『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』を読むと、険しい山の山頂であるにもかかわらず、観仏体験ができるという観音菩薩像の霊験を求めて多くの人で賑わう場所として書かれている。比蘇自然智再考でもちょこっと指摘したが、観仏信仰について考える場合、奈良の吉野のような賑やかな山の霊場が存在することを常に意識していなければならないのではないかと思う。ついつい我々は、神聖な場所=静寂みたいなイメージを持ってしまうので(ゲームってたいがいそうだよね)。