先に書いたエントリ「懺悔・占い・禅定・受戒」に対するほうじょうさんのコメントで出てきた『藤氏家伝』を、ようやく目を通したので、観仏体験に関する部分を抜き書き(書き下しと頁数は『藤氏家伝 鎌足・貞慧・武智麻呂伝 注釈と研究』による)。
はっきりしてるのは鎌足による観仏体験。
秋七月に至りて、天皇の御体不悆きたまふ。是に大臣中心より危み懼りて、神祇を祈み祷り、また三宝に依りて、敦く眉寿を求む。璧像、臂を申べて頂を摩で、観音夢に寄せて以って空に現れぬ。聖の応所有るは、煥然明なり。(p. 205)
斉明天皇の病気にあたり、神祇に祈るとともに、三宝に対して長寿を願ったら、観音が現れた、という話(ただし、斉明天皇はすぐに死んでしまう)。これに対して高句麗からの渡来僧・道賢が、中国の忠臣の故事を引きながら鎌足を賞賛している。『日本書紀』などによると道賢は占いが得意。
武智麻呂伝にも、観仏体験に深い関係がある記述がある。
後に余閑に就きて、滋賀山寺に詣り、尊容を礼みて発願し、身心を刻みて懺罪す。受戒長斉して神剣を造らしめ、使に付けて進る。(p. 344)
仏像の前で懺悔→受戒したというのは、菩薩戒の受戒作法と同じであり、したがって観仏体験とも大いに関係する(拙稿「五姓各別説と観音の夢 『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試み」など参照)。また「山寺」というのも気になる。比蘇自然智再考 - もろ式: 読書日記でちょっと述べたように、山寺は「仏菩薩と会える場所」なんじゃないかという予想を立てたことがあるのだが、この「滋賀山寺」の記事もまたそれに関連するかもしれない。その後の「神剣」についてはちょっとわからない。
ついでに言えばこの「仏菩薩と会える場所」としての山、というテーマは、吉田一彦さんやほうじょうさんをはじめとする神仏習合に関する最近の研究をふまえれば、中国仏教における山林修行との関連が想起される。『藤氏家伝』武智麻呂伝には、神仏習合の元となった神身離脱的な話が見える。
公、嘗夢に一の奇しき人に遇ひき。容貌常に非ず。語りて曰ひたまはく、「公、仏法を愛で慕ふこと、人と神と共に知れり。幸まくは、吾が為に寺を造りて、吾が願ひを助け済へ。吾宿業に因りて、神となりて固に久し。今、仏道に帰依し、福業を修行せんと欲へども因縁を得ず。故、来たりて告げたり」といひたまふ。公、是は気比神ならむかと疑ひ、答へむと欲へども能はずして覚む。仍りて祈み曰さく、「人と神と道別にして、隠りたると顕はれたると同じくあらず。昨夜の夢の中の奇しき人、是誰者か知らず。神若し験を示さば、必ず為に寺を樹てむ」と。是に、神優婆塞久米勝足を取りて、高き木末に置き、因りてその験と称ひたまふ。公乃ち実なりと知りて、遂に一寺を樹てき。今、越前國に在る神宮寺是なり。(pp. 351-352)
この例も観仏体験の問題系に属すると考えるべきだろう。
あと、鎌足が亡くなったときに「時に、空中に雲有り、形紫の蓋の如くありき。糸竹の音、其の上に聴えき」(p. 251)という現象が起きたり、弔辞に兜率天往生についての言及があったり(p. 244)するのも、観仏体験という点で気になるところではある。
また、『藤氏家伝』のこのような記述が、法相宗の教義をベースにしていたのかどうかも気になる。言うまでもなく藤原氏の氏寺である興福寺は法相宗の本拠地であるし、鎌足の長男・貞慧は、入唐して玄奘の弟子・神泰のもとで学んでいる(『弥勒如来感応抄』によれば、神泰には弥勒上生信仰があったようだ)。また、武智麻呂伝には「薫習」という用語も見える。個人的には、これらを奈良時代の法相宗に観仏信仰があった証拠と考えたいが、如何なものか。