暴流の中で: 一般キャラクター論から見たキャラ/キャラクター論

「キャラクター・身体・コミュニティ〜第2回人文情報学シンポジウム」から1週間がたった。何らかの形でレポートせねばと思っているが、新年度も始まりそうだし、いつになることやら。そんな中、小形さんがレジュメ等を公開している*1。私の発表がそもそも雑駁な議論であることは充分承知しているし、シンポジウム当日にもいろいろつっこまれたので恥ずかしいこと極まりない (^_^;; が、私もレジュメ公開したいと思う(ただし、当日配布したものから、少し表現を変えているところもある)。

甚深にして微細な阿陀那識は、奔流のように一切種子として転じる。
ādānāvijñānagambhīrasūkṣmo augho yathā vartati sarvabījo/
玄奘訳)阿陀那識甚深細……一切種子如瀑流*2(『解深密経』巻第一)

1 はじめに

伊藤剛氏が『テヅカ・イズ・デッド*3で提示したキャラ/キャラクター論は、当初のマンガ論の範疇を超え、隣接する文学やアニメ、ゲームをはじめとした様々な分野で援用されている*4。筆者も守岡知彦氏らと共同で文字の一般理論を模索し、さらにはそれをより一般化したモデルについて構想してきたが、この概念に出会ったことで同じcharacterという英単語を共有する文字(特に漢字*5)と(マンガなどの)キャラクターとを貫く一般キャラクター論の輪郭が形作られてきた気がしている(その一端を前回のシンポジウムで示すことができた)*6。その一方で、『テヅカ・イズ・デッド』およびその後の伊藤氏の発言には――私の読解力の低さを棚に上げて言えば――いくつか賛同できない点もある。本発表の目的は、私が一般キャラクター論だと考えている立場から、キャラ/キャラクター論の持つ意義と問題点について論じることである。キャラ/キャラクター論と問題を共有する他分野(フィクション論、可能世界意味論、文学理論、認知科学など)においては、筆者の付け焼き刃では遠く及ばない深い洞察がなされており、車輪の再発明であればまだしも、とっくの昔に論駁された議論を蒸し返すようなことになるのではないかと恐れる次第である。諸賢のご叱正を乞う。

2 「キャラ」は「前(プロト)」なのか

伊藤氏は「キャラ」について「前(プロト)キャラクター態」と言い換え、また「「キャラ」というものの成立の上に、「キャラクター」を表現しうるようになっていると考えられる」(p. 88. 太字引用者)と述べていたりすることからもわかるように、「キャラクター」に先行する存在(あるいは「本質」)として考えているように見える*7。一般キャラクター論から見て、もっとも“違和感”があるのはこの点である。

一方で「キャラの自律化」について論ずる別の箇所を見ると、「キャラ」が「キャラクター」の単純な先行者ではないようにも読める*8。伊藤氏が「テクストの内部において、キャラが「物語」から遊離すること」「個々のテクストからも離れ、キャラが間テクスト的に環境中に遊離し、遍在すること」(p. 54)と述べていることからもわかるように、複数の「キャラクター」から「キャラ」が立ち上がってくるプロセスも論じられており、言わば「キャラ」と「キャラクター」の循環的な関係も示唆されているのである(p.117, 図3-5)。新しい「テクスト」において、「キャラ」に基づいた「キャラクター」が描かれれば、その新しい「テクスト」を含むテクスト群によって再定義された「キャラ」が立ち上がってくる。その意味では「キャラ」「キャラクター」は再帰的な系を構成していると読むことができ、「キャラ」を単純な「前(プロト)」な存在とは見なすことはできない*9

筆者がこれまで一般キャラクター論の文脈で関心を持ってきたことで言えば、上のような循環的、再帰的な関係であるにもかかわらず、「キャラ」が事後的に「前(プロト)」として見出される点である。筆者は以前、これに関連する例として、辞書が用例の後に作られるにもかかわらず用例に先行するものと見なされる現象を指摘し、デリダの散種 (dissémination) や痕跡*10の概念を用いて説明を試みたことがある*11。複数の「キャラクター」から「キャラ」が見出されることで、その「キャラ」を見出した記号システム(≒ラング)自体が改変される(記号システムを改変しながら「キャラ」は見出される)。原則として(もちろん、それを知るための様々な方途があるが)、我々は自分の依存している記号システムの外に出ることはできないので、記号システム自体の“変化”を知ることはできない。その結果、「キャラ」はあたかも最初から(つねにすでに)「キャラ」であったように理解されるのではないだろうか。

3 固有名とキャラ/キャラクター

同じような“混乱”は、固有名とキャラ/キャラクターに関する議論にも見られるように思う。伊藤氏は「キャラ」を次のように定義している(p.117, 図3-5にも「同一の固有名による名指し」と見える)。

多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの (p. 95)

別の場所でも、固有名による名指しの重要性を強調している。

固有名と図像の結びつきというのは重要で、名指されることによって初めて「キャラ」になるということがある。…「キャラ」が「キャラ」として成立する際に、固有名による名指しがすごく重要なわけです。…結局、固有名はそれが固有名と見なされるかどうかというもので、ある文脈の中で、それが固有名と見なされてしまえば、「キャラ」になるし無限の可能性を孕むわけです。(夏目房之介宮本大人伊藤剛「キャラの近代、マンガの起源 『テヅカ・イズ・デッド』をめぐって」、ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線

このふたつの発言で注目されるのは、固有名と「キャラ」のパラドキシカルな、循環的な関係である。名指しができるためには、すでにその対象が名指されるにふさわしい程度に他と区別されたものでなければならない。その意味では「キャラ」は固有名に先行すると言える。一方で後者の引用では、すでにある種の「名」が付されているものが、その名が「固有名」化することによって(その際、「名」の内容に変化がないことに注意)「キャラ」化するプロセスが述べられている。これは「キャラ」に先行する(固有)名がある、ということを示すものであろう。『テヅカ・イズ・デッド』において固有名自体を論じた部分はないが、このような循環的な関係に関連して、次のような発言が注目される。

夏目 僕が一番違うと思うのは、動かせることだと思うんだよね。「キャラ」は動くからこそ「キャラ」なんであって。
伊藤 動かせるということとそれがある固有性を維持し続けることは、おそらく同じことの裏表ですよね。(前掲「キャラの近代、マンガの起源」)

これまでの議論を踏まえれば、固有名の対象となる「キャラ」があってそれを「動かせる」のではなく(もちろん、実作者の感覚についてはそのような表現もあり得るだろうが)、「動く」ということ、運動(単なる移動ではなく、キャラ/キャラクターの内容そのものを変化させていくような運動≒計算)そのものに対して固有名が付されると考えるべきではないだろうか。

それでは、固有名とはどのようなものなのであろうか。『テヅカ』において固有名自体を論ずるところはないが、しばしばラッセル、クリプキらによる固有名に関する議論が参照されている。固有名とキャラとの関係について宮本大人氏は、

…「キャラ」は近代のものだというときに、たぶん重要になっていくのは、固有名があるということだと思うんです。固有名が何を指しているかというと性格ではなくて、その人の存在そのものなんですね。…それで固有名は性格の記述の束に還元できないものであると。…「キャラ」に固有名が必要だというのは、まさに固有名でなければ捉えられない何かが「人間」にはあるんだという考え方に基づいていて、これは近代の産物なんだろうと。(前掲「キャラの近代、マンガの起源」)

と述べている。ここで注意しなければならないのは、固有名は必ずしも「存在そのもの」のみに結びつくわけではないということである*12ラッセルが真の固有名として論理的固有名(「これは師茂樹である」の「これ」)を提唱した――その結果多くの批判*13に晒されることになるが――のは、固有名がデリダの言う自同性 (mêmeté) と同一性 (identité)、柄谷行人*14の言う特殊性と単独性、オブジェクト指向的に言えばクラスとインスタンスの両方を指すことを嫌ったからであろう。キャラ/キャラクター論の文脈で言えば、固有名は「キャラ」と「キャラクター」の両方に使われる。

柄谷氏は「特殊性と単独性はいつも混同されている」(『探究II』, p. 12) と述べ、単独性*15の問題について議論しているのであるが、上に述べたキャラとキャラクターの循環的、再帰的な関係を承認するならば、固有名がキャラとキャラクターの両方に適用される理由が逆に理解できるように思われる*16

ついでに言えば、柄谷行人氏が、

固有名をとりのぞき一般的な自然法則を見いだそうとしてきた物理学の先端は、それが「この宇宙」という歴史に属するものでしかないことを見いだした。自然科学も「歴史」に属する。つまり、窮極的に固有名をとりのぞくわけにはいかないのだ。(『探究II』, p. 28)

と述べているように、確定記述自体が(別の)確定記述の対象によって成立している。キャラ/キャラクター論にひきつけてパラフレーズすれば、ある「キャラ」は(別の)「キャラ」の束によって記述することができる(つまり、「萌え属性」や「設定」などもひとつひとつが「キャラクター」=用例に支えられた「キャラ」ということになる)。「キャラ」は書き換わっていくものであるので、“確定”記述という表現とは矛盾してしまうが、「キャラ」の束による「キャラ」の記述という考え方は、それなりに使えるかもしれない(例えば、“強い”「キャラ」とは、他の「キャラ」への依存度が強い、など)。

4 読む/書くコミュニティの書き換わり

上の固有名の議論において、伊藤氏が「ある文脈」と述べているのは注目される*17。「キャラ」の生成には、分節という認知的な面だけでなく、コミュニティが大きく関わっていることが示唆されているからである。

これに関連して、千野帽子氏が“SFマインド”や“本格愛”を批判的に論じる中で次のように述べているのは示唆的である。

ジャンルという制度は、商業モデルを支えるし、同時に好尚の基準をも作ります(ここで言う好尚は嗜好と流行の両方の意)。 商業の制度が好尚にフィードバックして、好尚が拡大再生産されます。つまりまず制度ができ、そのあとに理念が遡って作られる。だから商業ジャンルというものは「気がついたらもうある」ものです。〈つねにすでに(トゥジュール・エ・デジャ)〉あるものなのです。二回目はニューアカっぽく言ってみたよ。(千野帽子「少年探偵団は二度死ぬ」、『CRITICA』2, p. 97)

要するにジャンルの「らしさ」はまず、「すでに成立してしまっている」現状(または「黄金期」を肯定するところから始まる。「上がり」が先に決まっていて、そこにいたる自然な過程を遡って歴史を構築しているのです。(同, pp. 111-112)

同様のことは、伊藤氏も問題にしている。竹内オサム氏らの議論を批判的に検討する中で「手塚が「起源」として見いだされるのは、あくまで事後的なものなのである」(p. 197)などと述べているのは、上の千野氏によるジャンル論とパラレルであろうし、さらに言えば「キャラ」が見出されるプロセスとも同じものなのではないだろうか*18。そうであるならば、ある対象に「キャラ」を見出す(コミュニティの構成員である)「私」に特権的な地位を認めることはできない*19。「私」もまた「人格・のようなもの」として見出されているのである。

まとめ

以上、伊藤氏の議論について若干の私見(私が一般キャラクター論と考える立場から見た意見)を述べてみた。

もちろん、キャラ/キャラクター論は、第一義的にはマンガとマンガ論の分析のために提案された概念であり、その意味では徒に対象領域を広げて適用し、さらにそれを批判するなどということは不当な行為であると言われても仕方がないが、ここでの議論によってキャラ/キャラクター論がより厳密に語れるようになったり、一般キャラクター論の構想がより具体化すればこの上ない喜びである*20

*1:「正字」における束縛の諸相 - もじのなまえ「正字」における束縛の諸相、プレゼン資料を公開 - もじのなまえ1950年代初頭に略字体が一般的に使われていたことの意味 - もじのなまえ

*2:『唯識三十頌』を読む (TU選書), p. 81.

*3:

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

*4:ミステリ小説に関しては探偵小説と記号的人物(ヨミ キャラ/キャラクター) (キイ・ライブラリー)ライトノベルやゲームについてはゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)、アニメについては今井隆介氏の口頭発表「声と主体性: アニメーションにおける声の機能」(第4回ポピュラーカルチャー研究会「その声は誰の声?―〈声〉の現在とポピュラーカルチャー」)など。また伊藤氏自身が初音ミクについて論じた「ハジメテノオト、原初のキャラ・キャラの原初」(『ちくま』444, 2008)なども注目される。

*5:アルファベットなどの文字はcharacterではなくletterとされることがある。

*6:したがって、多くの論者がキャラクター論で文字を分離することに違和感を感じてもきた。

*7:なお、同様の構造は、文字においても見られる。以前筆者は、現在多くのコンピュータで普及している符号化文字集合Unicodeの文字に対する考え方を、アリストテレス的(≒クラスベースのオブジェクト指向的)本質主義であり、デリダが批判した音声言語中心主義の流れに属するのではないかと指摘したことがある(拙稿“Surface or Essence: Beyond the Coded Character Set Model.”, 「Unicodeのcharacter概念に関する一考察」, 「思想史としての文字情報処理: 問題提起として」)。Unicodeにおいては、特定の具体的な字形を持って表示されたり印刷されたりした文字はglyphであり、抽象的な意味や字形を指示するものであるcharacterとは区別される。ここで言うcharacterは「キャラ」に、glyphは「キャラクター」に概ね対応するのではないかと思われる。また、ダグラス・ホフスタッター氏はメタマジック・ゲーム―科学と芸術のジグソーパズルにおいて、ドナルド・クヌース氏が文字の唯一究極的な抽象形の存在を認め、それを「有限個のノブのついたソフトウェア機械」で表現できると考えていることを批判する。

*8:拙稿「総括」(守岡知彦編『人文情報学シンポジウム ―キャラクター・データベース・共同行為― 報告書』、 2007年12月)や同「文字の見えない部分 ―制御文字考 (2)―」などでは伊藤氏が前(プロト)ではないあり方も考えていると思っていたが、「…「キャラクター」の中に「キャラ」が埋め込まれているということをはっきり表したかったんです。「キャラ」なくして「キャラクター」は成立しない」という伊藤氏の発言(夏目房之介東浩紀伊藤剛「「キャラ/キャラクター」概念の可能性」、コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル)などから、やはり伊藤氏は前(プロト)であることを重視しているのではないかと考えるようになった。ちなみにたけくまメモ : 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)もそのような理解に立っている。

*9:井上康氏は、キャラのこのような一見パラドキシカルなあり方から「キャラをマンガ世界の歴史に一貫して存在するものとするのではなく、前(プロト)キャラクター態はキャラとは違ったものとして、〈前(プロト)キャラクター態→キャラクターの成立→キャラクターとキャラとへの分離、キャラの自律化〉という過程を考えるべきではなかろうか」と述べる(「マンガ言語世界が生み出した<超>記号・キャラについて ―伊藤剛著「テヅカ・イズ・デッド」によせて」, p. 170)。

*10:

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

*11:拙稿「制御文字考 ―書記における制御的なものについて―」(『人文情報学シンポジウム ―キャラクター・データベース・共同行為― 報告書』、 2007年12月)、前掲“Surface or Essence: Beyond the Coded Character Set Model.”

*12:ついでに言えば、近代にも結びつかないのではないか。この発言は「キャラクターが立つ」条件のひとつに「内面」をあげるの議論(宮本大人「漫画においてキャラクターが「立つ」とはどういうことか」(『日本児童文学』49-2, 2003)と結びついているのだと思われるが、固有名は「人間」のみにつくものではない。

*13:従来、ラッセルの説の中で批判対象になってきた確定記述の束についても、ここまでの議論と同様のことが言えるのではないかと思われる。通常、確定記述(「師茂樹は男である」)は、それが否定された可能世界(「師茂樹が女である世界」など)を想定できることによって、固有名の対象を確定記述の束に還元することができないとされる。しかし、ある対象について、従来の「世界」にあったそれと、別の可能世界に「引用」されたときのそれとの間に「自同性」が見出され、同じ固有名が付される――論理学的な無時間性において固有名は無批判に先行者と見なされるが(しかし、無時間だから先行するというのもおかしな話である)――というプロセスは、あくまで事後的なものなのではないだろうか。

*14:

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

*15:キャラ/キャラクター論の文脈で言えば、「キャラ」に回収されない「キャラクター」とでも言うべきものか。

*16:これに関連して、デリダの「署名」に関する議論が参考になる。ここで言う「同じもの性」は「キャラ」に、「同一性」は「キャラクター」に概ね対応すると考えられる。伊藤氏も四方田犬彦氏の同様の発言(「二度と同じ顔が描かれることはない。同一の顔を際限なく描き続けることができる」)を引用している(p. 115)。

*17:2ちゃんねるの「【真理の探求】東浩紀スレッド100【祝降臨】」において東浩紀氏は、しろうと氏の「『動物化するポストモダン2』ですが、/固有名が確定記述に還元されないように、/キャラクターはデータベースに還元されないとは/考えられないものでしょうか。」という質問に対し、「キャラクターの「一部」に還元されないものがあると考えるべき。/でもそれはラカン的トレ・ユネールではなく、/二次創作の海が生み出す幽霊として捉えるべき。」 と述べる (ブログ『モエリロン』の「東浩紀2ちゃんねる降臨まとめ(全体)」等参照)。これは本稿でのこれまでの議論に通じるだろう。

*18:これに関連して、集合記憶においても同様の構造が見えることを拙稿「記憶を書き出す―総括にかえて」(『GYRATIVA』4、2007年)で指摘したことがある。守岡知彦氏も「甲骨文字処理にまつわるエトセトラ」(『東洋学へのコンピュータ利用 第19回研究セミナー』、2008年3月)において「過去」を「現代にとっての過去」と言い換えることを提案している。

*19:以前、前掲「制御文字考」において、個人レベルの書記に見られる同様のダイナミズムを考察したことがある。

*20:キャラ/キャラクター論は伊藤氏がそう名付けたことによって認識可能な対象=キャラとなったと言えるし、一般キャラクター論も「キャラ」化を目指しているのである。