「由緒書」「親鸞伝」というフィクションの力

稲城正己さんによる塩谷菊美『真宗寺院由緒書と親鸞伝』*1の書評(『大谷大学史学論究』第12号、2006年3月*2)を読む。非常に刺激的な内容で、塩谷さんの本をついつい買わねばと思わされてしまうような内容である。以下、ちょっとだけ拾い書き:

  • 第I部「由緒書の型と表現」では、由緒書というテクストが一定の形式に従って叙述されている点に注目し、そのような様式の意味が問われる。
  • 〈物語〉には一定の「型」=構造があるのだ。しかもその構造には、「型が要求する必然的な「嘘」」(六七頁)が織り込まれることがある。「嘘」=虚構は、野家啓一*3によれば、制度化された言説コードから逸脱することによって既存の文節構造を変更する技術である。
  • 塩谷は、「物語の「型」が事実を凌駕するほどの力を持ち得る理由は何か」(六九頁)、すなわち「虚構」を組み込んだ〈物語〉という構造が、〈事実〉という「制度」を打ち破る力をもつのはなぜかを問う。

第II部は〈物語〉を共有しているコミュニティがどのように変化していったか、という問題。稲城さんはバフチン*4やシャルチエ*5を援用しながら「解読」している。

  • 御文自体に実体的な価値があるのではなくて、門徒それぞれが語り手と聞き手の役割を相互に果たし、御文に書かれている言葉を〈語る/聴く〉ことに意味があるとすれば、そこからは御文に対するフェティシズムや、蓮如と門徒間の、あるいは師弟間の非対称的な差異は生まれない。
  • 元禄・享保期以降の「考証の季節」に登場してくる近世の異伝・異説は、本願寺によって「虚偽」として排斥されるようになる。「考証」とは正しい意味を確定する作業ではない。それは、テクストの言葉の始源を権威ある仏典や典籍に到達するまで遡及していくことである。
  • 二〇世紀を迎えると、自室に籠ってひとり書物を読み耽り思索することが、親鸞に近づくための大道になっていく。自分だけが親鸞の教義と解読コードを独占的に所有しているという確信をえることによって、あたかも親鸞と対等な「自己」が確立したかのように思い込む時代が到来したのである。

最後の「自分だけが○×の解読コードを独占的に所有しているという確信」の部分は、自分にも思い当たる部分があるなぁ (^_^;; 自戒自戒。

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*2:って発行日を偽り過ぎなのでは (^_^;; と一瞬思ったが、id:monodoi:20060524:p1を見ると去年の春には出ていたようである。なんで今頃、私のメールボックス大谷大学非常勤講師控え室)に入っていたのか謎である。

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