『最終兵器彼女』の戦争
ちっとも歴史を研究してるようには見えない史学研究会霞梅というサークルが主催する討論会に参加した。マンガ・アニメと戦争という討論会に続くネタで、今回は『最終兵器彼女』における「最終兵器」とは何か?という議論を通じて、サブカルなどにおける戦争観みたいなものについて考えてみようという企画である。
このマンガについては、連載開始当初にちらっと読んだぐらいで、ほとんど記憶がなかったのだが、発表者のまとめや資料がわかりやすくできていたので、議論に参加することは容易だった。ただ、「最終兵器」を論ずるにあたり、『沈黙の艦隊』を引いて抑止力かどうかを云々するだけだったのは、ちょっと表層的すぎたか。というか、分析の仕方を知らないんだよね、多分(いや、私も知らないんだけどね (^_^;;)。
その場で適当に思いついたこととしては、まず、「最終兵器」ちせが、情報戦〜特殊部隊〜局地戦〜核兵器による大量破壊みたいな現代の戦争のすべての局面に参加可能な能力を持っていることから見ても、このような把握しづらい現代の戦争を視覚化してほしいという社会的欲求みたいなものを具現化したものではないか?ということ。昔は軍隊のパレードなどによって兵器はヴィジュアライズされていたし、冷戦時代においても「抑止力」というわかりにくいものをICBMの映像でなんとか「見る」ことができた。しかし、現代では、それらと比べると非常に見えにくくなっていると思う。その不安感が、ちせという「最終兵器」として表象された、と考えるのは乱暴だろうか?
あと、例えばAKIRAなんかだと、アーミーの最終兵器は超能力をもった子どもたちだったりするわけだが、ちせは機械化された女子高生だ。エスパーが「最終兵器」としての地位を失い?、現実にありそうな兵器がそれにとって代わったのはなぜか。また、その担い手が子どもから高校生へシフトしたのはなぜか。この辺はいろいろ考える余地があるように思う。
それ以外にも、自衛隊が外国の戦争にコミットしていることがあまり違和感がないことも、『沈黙の艦隊』などと比較してみるとおもしろいよね。
本当は、この作品を読んだ時の一番気になったのは、ベタがないこと=スカスカした感じだったのだが、この辺は分析する能力がないので、福島先生の登場を待つのみである。