漢字の起源説・仏教版 (1)

研究用メモ&現実逃避ネタ。以前シュメル神話の世界 - もろ式: 読書日記というエントリで、漢字の起源に関する仏教系の異説についてちらっと紹介したが、それが書いてある道宣『律相感通伝』*1の該当箇所を超訳してみた(間違いがあったら、ぜひご指摘下さい)。この書物は、道宣という唐代の有名なお坊さん(『続高僧伝』という仏教史書を書いたり、『四分律』の注釈書を著して東アジアの律宗の創始者みたいになった)が、晩年に怪しいビジョンをたくさん見た記録をいくつか残しているのだが、そのなかの一つである。この書物では、天人が現れて、道宣の質問に答える形で中国仏教史跡の由来の話などをしてくれているのだが、その中に漢字の起源についての話も出てくる。

最初に道宣はこんな質問をする。

私(道宣)は(天人に)問うた。益州成都の多宝如来の石像が、地面から湧出したのはいつの時代か?と。

ヤッターマン風に)解説しよう。多宝如来とは『法華経』見宝塔品に出てくる仏さまで、釈尊が説法をしていたら、地中から七宝で飾られた巨大な塔が湧出して、その中に多宝如来がいた、という感じで登場する。『法華経』を至上とする日蓮宗なんかでは、多宝塔の中に釈尊と多宝如来を納めたダブル本尊があるお寺も多い。

天人は次のように答えた。「蜀の都はもともと青城山の上にありました。今の成都のある場所には、大きな湖がありました。昔、迦葉仏の時代に、ある人が西洱河(のほとり?)で多宝如来の全身の姿に似せてこの像を作り、そこの鷲頭山寺に安置しました。

迦葉仏というのは、釈迦の前にこの世界に出現したブッダのことで、過去七仏のひとり。

あるとき成都の人が商売のためにそこにやってきました。その人は、この像を(成都まで)持って帰りたいと願いました。(その願いがかなって)この人が、現在の多宝(如来のある)寺のあたりまで来たとき、湖の神〔海神〕によって船を転覆させられてしまったのです。(というのも)その像を持ってきた人は、湖の岸辺で湖の神の子供が遊んでいるのを見て山の怪物〔山怪〕だと思い、この子を殺してしまったのです。それを見た湖の神は、怒って船ごと人も像も沈めてしまいました。

(中略)

晋の時代になって、ある僧が地面から土が噴出しているのを見つけました。出るそばから片付けてみたものの(土が後から後から出てくるので)平らにすることができません。後で見たら穴が開いていたので、非常に怪しいと思い、深さ1丈余り掘り下げたところ、仏像と人骨が船の中にあるのを見つけました。その髑髏、腕の骨、足の骨などはことごとく巨大で、今の人間の(骨の)数倍もありました。迦葉仏の時代は、閻浮提(=この世界)の人間の寿命が2万歳の時です。今の人間は寿命も短く体格も小さいが、もともとはそれが本来の姿だったのです。

マンモスの骨でも掘り当てたんでしょうか (^_^;; ちなみに迦葉仏の時代に2万歳だった寿命は、100年で1歳ずつ縮んで、現在の寿命は100歳になってしまった、というのが仏教的衰退史観。だから迦葉仏の時代は (20000 - 100) * 100 = 1,990,000 年前?(まあ、すごい昔、ということだろうな)。

さて、これが最初に出たときは、引き上げようとしてもできないでいました。しかし、仏弟子(である私)が老人に化けて陣頭指揮を執ったらすぐに取り出すことができました。(東)周が滅ぶ頃までのあいだ仏法は(人々の目から)隠れていましたが、隋が興る頃までに再び知られるようになりました。だから(周以前に中国に仏像があったことを知らない)蜀の人には、仏像が地面から湧いて出て来たようにしか見えず、その由来についても推測できなかったのです。台座に「多宝」と書かれていたので多宝仏、多宝寺と名づけたのです。」

以上が多宝如来像の由来を語る天人のお話。ここからが漢字のお話。天人の最後の一言に、道宣はひっかかったらしい。

私は質問した。(多宝如来像の台座の)「多宝」は隷書で書かれているが、隷書は滅亡した秦の時代のものではないか。どうして迦葉仏の時代に、すでに我が国〔神州〕に(隷)書があったと言うのか。

おお、鋭いツッコミ。天人は何と答えるか。

天人は次のように答えた。「滅びた秦の李斯が隷書(を作った)と言うのは近い時代(しか知らない人)の話です。遠く隷書の始まりを遡れば、古仏の時代に始まります。今の南閻浮洲(=この世界)を見てみると、四方を千有余の洲が取り囲み、この南閻浮洲を荘厳しています。そこに百有余の国がありますが、文字、発音が今の唐の国と同じです。ただし、そこに行くのに海路をはるばる数十万里もあるため、(仏典の?)翻訳者が伝えることはありませんでした。そのためこの国の人は(李斯が隷書を作った、などという)考えに固執していますが、(秦以前に隷書があっても)別に不思議なことではありません。

辞書的には、隷書を作ったのは李斯ではなく程邈になってたりするが、それはさておき。

師はご存じないでしょうか。梁の顧野王は大学の大博士ですが、彼が周に文字の起源を訪ねても、出没が定まらなかったそうです。そこで(顧野王が著した)『玉篇』の序には、(戦国時代の楚の名宰相)春申君の墓を開いたら墓碑銘が見つかったが、すべて隷書で書かれていた、と書かれています。春申君について調べればわかるように、彼は(東)周の時代、六ヶ国(が争っていた)時の人です。隷書は(秦が他国を)滅ぼした時?〔呑併之日〕(にできたもの)ではないのです。このように、この国にある篆書や隷書などの様々な書体(の起源)については、はっきりとしたことは知られていません。ましてや、目で見ることも耳で聞いたこともない迦葉仏の時のことなど、誰がわかるでしょう。」

漢字を発明した国は中国では(もちろん韓国でも*2)なかった!という衝撃の事実が発覚。漢字文化圏は東アジアだけではなかった!

そもそも隷書は秦代にできたわけではないらしい*3ので、戦国時代の碑文に隷書があってもそんなに不思議なことではなかったりするのだが、それが迦葉仏以前に遡る傍証とされてしまっている。

このあと、蒼頡の話が出てくるが、今回はここまで。

*1:http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1898_

*2:[http://www.j-cast.com/2006/11/21003931.html:title]

*3:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%B7%E6%9B%B8%E4%BD%93:title]