縁起の東西 聖人・奇跡・巡礼

仏教史学会の会場で、『アジア遊学』115を買った。

シンポジウム「縁起の東西 ―聖人・奇跡・巡礼―」をまとめたものとのこと。仲間たちの報告(ほぼ週刊四谷会談: あちこちでほぼ週刊四谷会談: 「縁起の東西」について)を読んで興味深く思っていたところなので、こうやって読むことができるのはうれしい。

全体としていろいろ勉強になるが、自分の関心である観仏信仰との関連では、特に下の二つが参考になった。

小野佳代「仏教における「香」と奇跡」

小野さんは臨終の場面に、香、特に焼香が出てくるのに注目し、いろいろな事例をあげている。そしてそれらの事例から小野さんは香の性質として次の三つを述べる。

  • 死を迎えた高僧から出る妙香は、仏・菩薩に擬している(三十二相八十種好の一つに妙香があるので)。
  • 妙香は聖衆来迎を意味する。
  • 焼香によって生じた香煙は空間移動し法界に行き渡るので、浄土への往生を願う臨終者が焼香した。

観仏信仰の視点から見ても、いずれも興味深い事例である。聖衆来迎に限らず、仏・菩薩が姿を現すときは妙音・妙香が欠かせない。五姓各別説と観音の夢 『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試みでも指摘したが、菩薩戒の受戒を証明するために仏が姿を現すときの描写として、「大唐三蔵法師伝西域正法蔵受菩薩戒法」はこんな感じのことを書いている。

次当為説三品心受戒、於十方諸仏所、有三品相現。或涼風、或妙香、或異声、或光明等、種種相現。

これと関連すると思われる記述は、『菩薩善戒経』『菩薩地持経』『瑜伽師地論』にも見られる(山部能宜先生にご教示いただきました。ありがとうございました)。

同じ菩薩戒との関連で言うと、三番目の臨終者の焼香と同様の所作が、菩薩戒の受戒においてもなされている点は指摘しておきたい。例えば『虚空蔵経』には、次のように書かれている。

もし[虚空蔵]が現前の見仏 (saṃmukhaṃ darśanaṃ) を彼らに与えないならば、罪があり彼[虚空蔵]を求めている初修業の菩薩は、後夜に座から立ち上がり、東に向かって立ち、香を捧げるべきである。天子たる太陽 (aruṇo devaputra) に請い求め、そして次のように言うべきである。「おお太陽よ。おお太陽よ。慈悲深い者よ。幸いなる者よ。高貴なる者よ。あなたは慈悲をもって閻浮提で私をつつみこんで下さい。慈悲深き虚空蔵を私の言葉で速やかに目覚めさせて下さい。私が自分の罪を懺悔して、聖なる大乗における方便についての智慧を得るための方便を、夢の中で私に示して下さい」。そして、彼は寝床で寝るべきである。太陽がこの閻浮提に昇ったとき、虚空蔵菩薩との出会いがあるであろう。(山部能宜「『梵網経』における好相行の研究」*1, p. 221)

浄土信仰も観仏信仰の伝統の一部に連なることがよくわかる。

いずれにせよ、香はけっこう重要そうだというのがこの論文を読んで強く思った。小野さんは他にも「香」の研究をされているようだ。チェックせねば。

舩田淳一「聖地巡礼と心・体」

舩田さんのコラムでは、「観想(イメージ)の中の巡礼」がキーワードである。これも観仏信仰を考える上で、大変興味深い例である(観仏信仰だと兜率天への巡礼みたいな例があるしね)。中でも興味深かったのは、比叡山に、千日回峰行のような巡礼修行をイメージの中で行う「運心巡礼」という修行方法があったという記事である*2

運心巡礼は室内に端座したまま、夜中の二時から翌朝の八時まで実際の回峰行と同じ六時間を費やして、出発点である無動寺谷の明王堂から比叡山日吉社の聖所を全てつぶさにイメージし、観想の中で礼拝作法を修して巡ることを百日間続けるものである。抽象的ではあるが、回峰ルートに転がる石の一つまでが克明に心の中に再現できるというから、あくまでも実体験として回峰行を成し遂げ、これに熟達した特別な行者であるからこそ可能となる実践である。それは巡礼の完全な心・体内化のなせる業であると言えよう。

回峰行のことを何も知らないが、この部分だけを読むと、具体的なものを見ることからイメージへの移行というのは、仏教の最初期からある伝統的な修行方法の典型であり、「運心巡礼」もまたその系譜に連なるのではないかと思う。例えば不浄観でも、最初は墓場などで実際に死体の腐って行く様を見、修行が進んできたら今度は普通の部屋の中でイメージとしてそれを再現できなければならない(部屋でできなかったら、絵を使ったり、また墓場に戻ったりする)。

十二年籠山行の前の好相行をはじめ、比叡山の修行方法には観仏信仰に関連するものが多い。上の例も、インドとか中央アジアに遡れそうな要素を持っているのではないかと思われる。

*1:

北朝隋唐中国仏教思想史

北朝隋唐中国仏教思想史

*2:

回峰行を生きる

回峰行を生きる