探偵小説と記号的人物(([asin:4488015212:detail]))

とりあえずざっと読んだのでメモ。一般キャラクター論に関連するものなので、いずれきちっと読まねばならないかもしれない。

この本はタイトル通り探偵小説に関するものなのであるが、「記号的人物」に「キャラ/キャラクター」とルビがふられていることからもわかるように、『テヅカ・イズ・デッド*1キャラ/キャラクター論を意識した内容となっている。ただし、「援用した」とかではなくて「意識した」と紹介したように、本書は『テヅカ〜』出版とほぼ同時期の連載をまとめた本なので直接的な引用、批評が本文中にほとんどなく、「あとがき」にまとまったコメントが見られる。その意味では、本書のキャラ/キャラクター論は一応、『テヅカ〜』のそれとは区別しておいた方が無難であろう。

本書におけるキャラクター論は、大雑把にまとめれば、英単語characterの、

  • 小説や演劇における登場人物
  • 性格、人格
  • 文字、記号

という意味のうち、「性格、人格」を近代小説の登場人物に代表させる固有の“内面”をもつキャラクターに、「文字、記号」を『里見八犬伝』などの前近代の物語やマンガ・アニメ・ゲームなどの“内面”を持たないキャラクター(=キャラ)に、それぞれ対応づけている。

このキャラ/キャラクター論を、あとがきでは『テヅカ〜』のそれと接続しようとしているが、あまりうまくいってるようには見えない。『テヅカ〜』のキャラ/キャラクターは内面/外面や深層/表層というような単純な二項対立の話ではない。以前、こんな風にまとめたことがあるので引用しておく*2

テヅカ・イズ・デッド』(p. 95)によれば、「キャラ」とは、

多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

と定義され、一方「キャラクター」については、

「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

と定義されている。言うまでもなく、日常用語としての「キャラ」は「キャラクター」の短縮形に過ぎないわけであるが、従来、キャラクターという用語が持っていた二面性を峻別して議論する必要性から「キャラ」を独自の用語として「キャラクター」から独立させたのである。

ところで「キャラ」については、「前(プロト)キャラクター態」と言い換えられていたり、「「キャラ」というものの成立の上に、「キャラクター」を表現しうるようになっていると考えられる」(p. 88. 強調引用者)と述べられていたりすることからもわかるように、「キャラクター」に先行する存在(あるいは「本質」)として考えられているように見える。

しかしながら、「キャラの自律化」について論ずる別の箇所を参照することで、「キャラ」が「キャラクター」の単純な先行者ではないことがわかる。伊藤氏が「テクストの内部において、キャラが「物語」から遊離すること」「個々のテクストからも離れ、キャラが間テクスト的に環境中に遊離し、遍在すること」(p. 54)と述べていることからもわかるように、複数の「キャラクター」から「キャラ」が立ち上がってくるプロセスも論じられており、言わば「キャラ」と「キャラクター」の循環的な関係も示唆されているのである。新しい「テクスト」において、「キャラ」に基づいた「キャラクター」が描かれれば、その新しい「テクスト」を含むテクスト群によって再帰的に「キャラ」が立ち上がってくる。その意味では「キャラ」「キャラクター」は自己書き換え系を構成していると考えられるのである。言うまでもなく間テクスト性においては、あるテクストがあったとして、それはそれ以前のテクストを引用して書かれるというだけでなく、読まれる際にはそれ以後に書かれたテクストも参照されながら読まれる。つまり、先稿*3において指摘した「非今」の介入という事態が、「キャラ」の立ち上がりについても起きるのである。

『テヅカ〜』がキャラクター論の中から文字を排除したのに対し、本書は積極的にキャラクターの文字の側面に注目しているのは評価したい。しかし、本書で違和感があるのは、「文字、記号」=表層のみ、みたいな決め打ちをしているように見えるところである。

「文字、記号」としてのキャラクターに、近代小説のキャラクターのような「性格、人格」など存在しない。内面的な奥深さ、生々しい感情と独創的な思考、悲劇的な葛藤と苦悩、などなどの近代小説的なキャラクター性を「キャラ」に求めても無駄である。(p. 86)

むしろ通常の文字論であれば、表層(≒Unicodeにおけるglyph)と深層(≒Unicodeにおけるcharacter)を区別して議論しましょう、みたいなのが一般的であり、「文字、記号」=表層のみ、という見方はあまりないように思う(のだが、私の勉強不足なんだろうか。まあ、その可能性も大いにあるだろうけどな (^_^;;)。もちろん、この場合の文字の深層をめぐる議論は、それこそ『里見八犬伝』のキャラクターと同様、普遍的なものとして捉えられており、その意味では本書の議論に通ずるのだが、それは「内面的な領域を剥奪されている」(p. 85)のとは違うのではないだろうか。

また本書では、かなり長々と精神分析系の話が出てくる。探偵小説の成立の背景に大戦の体験(トラウマ)があること、最近のアニメのキャラクターはみんなトラウマを持っていること(そう言えば『ガンダムOO』もトラウマだらけだな)などなどから、モダン〜ポストモダンの文学の流れとのパラレル性を指摘しようという意図のようだ(このへんのまとめは、『モダンのクールダウン』*4の方が適切かと思うが)。

精神分析とかについてはまったく素人なので判断できないところも多いが、フロイトとかラカンとかが提案した分析概念は(ファッショナブル・ナンセンスになる危険性があるにせよ)それなりに有用な気がする。ただ、本書でこんなに長々と述べる必要があるんだろうか、という気もする。

*1:[asin:4757141297:detail]

*2:[http://fw8.bookpark.ne.jp/cm/ipsj/search.asp?flag=6&keyword=IPSJ-CH07076009&mode=:title=師茂樹「文字の見えない部分 ―制御文字考(2)―」(『情報処理学会研究報告』Vol. 2007, No. 95 (2007-CH-76)、2007年9月)]

*3:師茂樹「制御文字考 ―書記における制御的なものについて―」(『人文情報学シンポジウム―キャラクター・データベース・共同行為― 報告書』…私なんかが足を引っ張っていたせいで、最近ようやく出たようです (^_^;;)

*4:[asin:4757101805:detail]