北條勝貴さんからいろいろ頂きました。

いつもいろいろ刺激を頂いている北條勝貴さんから、論文抜刷を多数送って頂きました。いつもありがとうございます!

  1. 北條勝貴「鎌足の武をめぐる構築と忘却 ―〈太公兵法〉の言説史―」(篠川賢・増尾伸一郎編『藤氏家伝を読む』、吉川弘文館、2010年12月)
  2. 北條勝貴「生命と環境を捉える〈まなざし〉 ―環境史的アプローチと倫理的立場の重要性―」(歴史評論 2010年 12月号 [雑誌]、2010年12月)
  3. 北條勝貴「樹霊はどこへゆくのか ―御柱になること、神になること―」(『アジア民族文化研究』10、アジア民族文化学会、2011年3月)
  4. 北條勝貴「草木成仏論と他者表象の力 ―自然環境と日本古代仏教をめぐる一断面―」(長町裕司・永井敦子・高山貞美 共編『人間の尊厳を問い直す』、上智大学、2011年7月)
  5. 北條勝貴「〈負債〉の表現」(『環境という視座 エコクリティシズムと日本文学研究 (アジア遊学 143)』、勉誠出版、2011年7月)

うーん、すごい。兵法書や卜占が出てくる1は、私の最近の占い研究とリンクするところです(実はすでに書籍は購入していたりする)。2以下の環境史界隈の研究動向については、京都学的な文脈でちょこっと自分で調査している以外は、北條さんや中澤克昭さんのお仕事をちらちらわき見する程度ですので、幅広い研究史と方法論を踏まえた議論は大変勉強になります。特に、世界(をどう捉えるか)論や(他者としての)身体論など、自分の研究にも直接関わるところとか(ちなみに、2でも引かれている「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」というレヴィ=ストロースの言葉は、私の好きな言葉のひとつです)。

実は、私が先に書いた「末木先生のご意見に対して - もろ式: 読書日記」は、北條さんらの議論に多分に影響を受けていたりするので、上にあげた2〜5あたりを読んでいただければ大部分は読まなくてもいいものです(もちろん、細かいこと言えば、重ならない部分もありますし、意見〔というか見方〕が違うところもありますけど)。そもそもあのエントリの補足として、最近手に入れた『環境という視座 エコクリティシズムと日本文学研究 (アジア遊学 143)』を紹介しようと思っていたぐらいですから。実際、2(これは初見)を読んだら、私が書いたことなどはすでに北條さんが似たようなことを指摘していました。たとえば、

列島の神話・伝承群にも、人間が自然環境を生活の素材化することを肯定、正当化するベクトルと、逆に異類の立場から、それを拒絶し相対化しようとするベクトルの二つをみることができる。

とか。

また、以下の一節を読めば、先のエントリのコメント欄で北條さんが「絶望的」と言った意味もわかるのではないかと思います。

「環境史」「環境歴史学」といった言葉が一般に聞かれ始めた一〇年ほど前は、歴史学においても、未だ里山礼讃に基づく楽観的立場が少なくなかった。その後、縄文期以来の環境改変の凄まじさ、動植物利用の具体相が実証的に明らかにされるとともに、列島の環境文化を批判的に再検討する流れが活発化してきたように思われる。エコ・ナショナリズムに〈歴史的根拠〉を与えてきた神祇信仰、仏教の共生思想は、自然への暴力として対象化された供犠論や肉食研究、殺傷功徳論の解明によって空洞化され、草木成仏論、本覚論等にも(肯定するばかりではない)新たな照明が当てられつつある。

北條さんをはじめとする隣接分野の研究者が、自身の分野はもちろんのこと、隣接する文学や仏教学、あるいは方法論的に重要な現代思想、自然科学などを含むたくさんの先行研究を咀嚼しつつ議論を積み重ねているのを見ると、己の勉強不足、思考の浅さを痛感せざるを得ません。反省。