ソシュールの研究で有名な丸山圭三郎氏の『言葉と無意識』については、西洋哲学研究者からの唯識思想(阿頼耶識説)に対する言及として注目していたが、改めて読みなおしてみると身体論について考える上でもいくつかヒントになるようなものであった。
- 作者: 丸山圭三郎
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直接的な身体論に対する言及は、市川浩氏の『〈身〉の構造 身体論を超えて』の、
〈身分け〉は、身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化されるという両義的・共起的な事態を意味します。
を引きつつ、これに人間特有の「言分け構造」を対置する部分(p. 166〜)である。
- 作者: 市川浩
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もう一つ、身体論ではなく音楽の創作や神話研究に対する言及であるが、
私たちの常識のみならず、アカデミズム一般においてさえ「意識的か、偶然か」という問いの立て方を疑うことはなかった。たとえば、異民族間に共通する神話(日本のイザナギがイザナミを追って黄泉国に下る話とギリシアのオルペウスがエウリュディケを迎えに下界に行く話、我国の羽衣伝説とインド=ヨーロッパ神話に共通する〈白鳥処女説話〉、さらには浦島太郎の物語とスウェーデンの説話やリップ・ヴァン・ウィンクル物語に共通する〈仙郷淹留説話〉など)の存在についても、多くの学者は〈伝播か、偶然の一致か〉という二項対立発想にとどまっていた。(p. 113)
と述べつつ、「〈意識的でも偶然でもないもの〉こそ、いわゆる無意識において私たちを突き動かしている〈深層のロゴス=パトス〉という名の言葉の産物にほかならない」(pp. 114-115)と言っているのは、身体論にも適用できるかもしれない。つまり、時代・地域が離れている異なった身体技法において同種の(と思われる)“論理”が見られるのか、という問題について、〈伝播か、偶然の一致か〉ではない〈意識的でも偶然でもないもの〉としての身体、という第三項を立ててもいいんじゃないか、という感じ。