2002年3月、漢字文献情報処理研究会メールマガジンに「これがあれを滅ぼすだろう」というコラムを書いたことがある(http://www.jaet.gr.jp/mag/005.txt)。ちょっと長いが全文(一部改変)引用してみよう。
「いやはや、あなた、世も終わりですな。学生どものあんならんちき騒ぎは、生まれてこのかた見たこともありませんよ。近ごろのろくでもない発明とやらが、何もかもだいなしにしちまうんですよ。大砲だの、セルパンチーヌ砲だの、臼砲だの、とりわけドイツからはやりだしたあのやっかいな印刷術だの。もう写本もいらん、本もいらん! てわけです。印刷術は本屋殺しですよ。いよいよ世も終わりですなあ」
冒頭から引用で恐縮ですが、これはヴィクトル・ユゴーの小説『ノートル=ダム・ド・パリ』 で登場人物たちによって交わされる会話の一部です(『ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)』、p. 26)。
これと同じような発言を、最近、目にすることはないでしょうか? テレビやインターネットなど、メディアの発達によって活字離れ・本離れが起きていることについて危機感を煽る言論が盛んなのは、多くの皆さんがご承知のことと思います。中には『だれが「本」を殺すのか』などと言う上の「本屋殺し」と瓜二つのタイトルの本もあり、よく売れているとの事です。また、『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊』という本もありますが、本によって知識を得たために権威を権威と思わなくなった「学生どものらんちき騒ぎ」と比較するとなかなか皮肉なものです。
さて、『ノートル=ダム・ド・パリ』からもう一箇所、もっと具体的な部分から引用してみましょう。ここでは、印刷技術という新しいテクノロジーを前にした神父が次のように嘆きます。
司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建物をながめていたが、やがて溜息をひとつつくと、右手を、テーブルにひろげてあった書物のほうへ伸ばし、左手を、ノートル=ダム大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目を書物から建物へ移しながら言った。
「ああ! これがあれを滅ぼすだろう」
(中略)彼は何か深い瞑想にふけっている様子で、ニュルンベルクの名高い印刷機で刷りあげられた二折版の本の上に折り曲げた人さし指を置いて、じっと立ち続けていた。(p. 175)ここだけではちょっとわかりにくいので、続いてユゴーによる解説を聞いてみましょう。
わたしの考えによれば、このことばの意味には二つの面があったようだ。まず一つの面は聖職者としての考えである。印刷術という新興勢力のまえにおののく聖職者たちの恐れをあらわしている。グーテンベルクの輝かしい印刷機を目前にした、神に仕える人びとの恐怖と驚嘆の気持ちを示している。(中略)信仰と言う鎖から開放された人類がざわめき群らがり集まる気配をはやくも耳にした予言者の悲痛な叫び、ゆくゆくは知性が教義の足もとを掘りくずし、世論が信仰をその王座から蹴おとし、世界がローマを揺り動かすことを見て取った予言者の悲痛な叫びである。
(中略)だがいま挙げた第一の、おそらくしごく簡単な考えのほかに、いっそう近代的な考えがもう一つ隠されていたように思われる。(中略)つまり、人間の思想はその形態が変わるにつれて表現様式も変わっていくのだ、新しい時代の代表的思想はいつまでも古い時代と同じ材料や方法では記録されない、さすがにじょうぶで持ちのよい石の書物も、さらにいっそうじょうぶで持ちのよい紙の書物にとって代わられることになるのだ、という予感なのである。(pp. 176-177)この、やたら知識をひけらかすロマン主義小説は、19世紀に出版されたものですので、15世紀当時の人々の意識をそのまま描写しているとは思えませんが、「人間の思想はその形態が変わるにつれて表現様式も変わっていく」という洞察は正鵠を射ています。現在、活字離れが本を殺すとヒステリックに叫んでいる人々は、そもそもその「活字」や「本」がそれ以前のメディアをすべてではないにせよ滅ぼし、またそのメディアと不可分であったはずの「思想」もその巻き添えにしてきたことを知らないのでしょうか。時代が進んで自分の考え方と異なるものが出てきたときに、人はそれを堕落や改悪と見る傾向が強いようです。
これと同様に、人文学の、特に古典研究にコンピュータ利用がこれから必要不可欠となるであろうことは間違いないでしょうが、現在、これらのことについて研究したり、あるいは試行錯誤を重ねてデータベースを構築したりすることが、実際のテキスト読解を中心とした作業と同等に評価されているかと言えば、まだされていないというのが現状です。それどころか、古典とコンピュータとを結びつけるのを(先の本が殺されると叫ぶ人々と同様に)生理的に嫌がる人は少なくありません。「古典研究にコンピュータなんかいらない」「コンピュータばかりをやっていると、テキストを読むことが疎かになるのではないか」などという批判を受けるたびに、筆者は先ほど引用した『ノートル=ダム・ド・パリ』のシーンを思い出すのです。
確かに、コンピュータと言う新しいメディアが伝統的な学問や研究方法を「滅ぼす」可能性があることは否定しません。しかし、現在主流である研究方法もまた、それ以前に主流であった研究方法を「滅ぼす」ことによって成り立ってきたということを棚に上げて、コンピュータ利用だけを一方的に批判するのは不公平ではないでしょうか。
このコラムは、まだ現在ほどデジタルリソース(データベース)がなかった頃に、「古典研究」の「伝統的な学問や研究方法」のことを年頭に置いて書かれたものであるが、今日のGoogleブック検索問題などを踏まえると、ここで引いた『ノートル=ダム・ド・パリ』の一節はますます重い意味を持ってきているようにも思われる。今日では出版不況が叫ばれる一方、Googleブック検索や我が国の国会図書館をはじめとする世界的な書籍のデジタル化の潮流が喧伝され始めている。また、著者の印税を9割にという提案があるなか、Amazon Kindleを筆頭とした電子ブック業界が何度目かの正直でメジャーになりそうな雰囲気を背景に個人が印税35%の電子書籍を出版できる時代 - Amazon Kindleの衝撃:In the looop:ITmedia オルタナティブ・ブログなんて記事が書かれ、「出版社っていらねんじゃね?」的な雰囲気が漂いつつある。逆に「デジタルが本(というより出版社)を滅ぼすだろう」みたいな発言も、そこここから耳に入ってくる。
しかし、これは単にデジタル化の問題ではないようにも思われる。最近コミケや文学フリマには、学術研究系の同人誌が出店されることが増えてきた(12月29〜31日に開催されているコミケには東浩紀氏らの評論誌をはじめ、いくつかの学術系の同人誌が発売されている)。そもそも学会誌や大学紀要などはプロの出版社を介さない場合がほとんどなのだが、そういう地味で専門的なものとは違い、商業的にも成功しそうな高度な内容とデザインを兼ね備えたものが出版社を介さず同人誌として流通している現状は重く見るべきだろう。
もちろんこれの背景には、DTPソフトなどの普及や、ブログ、SNS、Twitterなどの情報発信とコミュニケーションのためのプラットフォームの広がりなど、広い意味での「デジタル化」の影響があることは無視できない。しかし、これらのツールは出版社をはじめとする既存のプレイヤーにも開かれている。PublisherはPublicそのものの変化に対応できるのか、と言う点が問われているのだろう。