解離と統合の少林寺拳法

最近忙しくて少林寺拳法の練習がほとんどできていない(涙)。練習量が絶対的に足りないので、ちびの入門を足がかりに職場以外の練習場所を確保したいところである。今日は徒労の色が濃い一日であったが、そんな中、山中先生インターンシップの話だけでなく、武道話ができたのは収穫であった。

こういう状況ではあるが、最近意識して練習(と言っても道場に行けないので、自宅やバス停で)しているのが「体重を載せた回し蹴り」である。蹴りに体重を載せるためには、軸足に体重を載せるという下方向の動きをしつつ、蹴り足を上にあげるという、真逆の運動をしなければならず、これがとても難しい。というか、通常の「蹴る」感覚と逆方向の動きをしなければならないので、身体感覚として気持ち悪い(できるようになると普通になってくるのだろうが)。「気持ち悪い」と言っても、そういう身体感覚を意識しながら練習するのはとても楽しい。思い切り蹴ることができるミットとかがあるわけではないので型練習みたいな感じではあるが、それでも自分の右足と左足をいったん解離させ、それを再統合しようとする作業はとてもおもしろい。

どんなスポーツにもこういう要素はあるのだろうが(踊り系には死ぬほどありそうだ)、武芸、武術には特にそういう要素が多いように思う。極端な例の一つは、「全力で攻撃をするための予備動作をしながら、実際には何もしない(またはその予備動作と全然違う動きをする)」系の技術ではないかと思う。武道を含む対人競技をある程度やっていると、全力で殴りかかったりする時などに相手が無意識的に行う予備動作(筋肉の動き、姿勢の変化など)だけで、その後の動作を無意識的に察知したりするわけだが、この技術は無意識的に行われているコミュニケーションを混乱させるための技術であり、試みればわかるが(もちろんできるわけではない)、あくまで意識の表層で展開する一般的なフェイントとは質が違うものではないかと思う。これも身体感覚としては激しく気持ち悪いし、かけられると魔法のような感覚らしい(かけられたことがないのでわからないが)。

少林寺拳法での例はてっちり武闘館: 少林寺拳法の「謎の空気パンチ」の項を参照(10年みっちりやればできるようになるらしい (^_^;;)。 この手の技術は「気当て」などの名称でいろいろな武道、格闘技にあるようで、端から見ると攻撃側(達人)が何もしていないのに受け側(こっちもかなりできる人)が(攻撃されたと思って)勝手に避けたり倒れたりするので、神秘系武道だと「気を使って触れずに相手を倒す」みたいなものになったりしている。そう言えば『シグルイ』8巻*1にもそういう技(“晦まし”)が出てましたな。月刊『秘伝』なんかで最近注目されているシステマなんかにもあるらしい(“金縛り”とかもあるらしい。DVD欲しいぞ)。

少林寺拳法をやってて楽しいのは、こういう動作だけでなく、思想とかそういうものも含めて全体的に解離と統合を意識的に実践しようとしているように見えるところである。古武道的な要素とK1っぽい現代的なところの共存、力愛不二や剛柔一体などの根本思想は、表層的にはそれなりのわかりやすい説明がなされているが、深層的には解離とその再統合こそが人間や社会の成熟にとって必要なのだと主張しているのではないかとさえ思われてくる。

*1:

シグルイ 8 (チャンピオンREDコミックス)

シグルイ 8 (チャンピオンREDコミックス)