守岡さんと昔から構想(というか妄想)していた「ディープな人文情報学」についてのシンポジウムである(人文情報学シンポジウム ―キャラクター・データベース・共同行為―)。すばらしいメンバーを集め、会をオーガナイズして下さった守岡さんに感謝感謝である。ぱっと見のプログラムはハチャメチャであるが、人文情報学ってもしかして可能なんじゃないかという手応えを感じられる会であった。
師 茂樹「制御文字考」
ポジション的に問題提起みたいなこともしなきゃいけないだろうなと思いつつ、いろいろ考えてこのタイトルにする(考えた結果、必ずしもよいテーマになるわけではないのだが)。
コンピュータ以前の時代から存在した「制御文字」という奇妙なものについて考えることで、文字(キャラクター)というもののコンテクスト被侵入性、自己参照・自己書き換え的あり方などについて論じ、人文情報学のコアな部分として必要だろうと思っている自己言及的な知に接続することを試みた。引用文献は以下の通り:
- Mackenzie, Charles E. Coded Character Sets: History and Development. Addison-Wesley, 1980.*1
- The Unicode Standard, Version 5.0. Addison-Wesley, 2007.*2
- 師茂樹「Unicodeのcharacter概念に関する一考察」(『東洋学へのコンピュータ利用 第15回研究セミナー』、2004)
- 石川九楊『筆蝕の構造』(ちくま学芸文庫)*3
- デリダ『声と現象』(理想社)*4
- 井筒俊彦「「書く」―デリダのエクリチュール論に因んで―」(『井筒俊彦著作集』9*5)
- スコールズ『記号論のたのしみ』(岩波書店)*6
- 斎藤環『文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』(青土社、2001)*7
- ベイトソン『精神の生態学』(思索社)*8
いろいろ思うところがあって、テーマをこのような狭い領域に限定してみたのだが、結果的にいろいろ抜け落ちてしまう部分(例えば「書く」に対する「読む」とか、そもそもコンテクストってそんなに自明なのか?とか)があったし、それ自体は割り切っていたのだが、案の定そのへんにつっこみが入って、戦略としてうまくいったかどうかはわからない。少なくともこの間の発表よりはまとまっていたとは思うけど (^_^;;
上地 宏一「多漢字グリフデータ共同管理環境の構築」
いつものフォント自動生成の話だが、Wiki上でグリフの共同制作環境を構築した場合に、文字のデザインに対する萌え(作家名でしか指し示せないような固有性)をどのようにモデル化するかという議論に発展したので、極めて「ディープな人文情報学」的議論へ発達する。病み上がりで、上地さんのフルパワー?が出なかったのは残念。
江渡 浩一郎「Wikiの本質」
『未来心理』7号所収の「なぜそんなにもWikiは重要なのか」と重なる部分が多い発表だったが、「ディープな人文情報学」的文脈で聞くと極めて恐ろしい内容に聞こえる。エクストリーム・プログラミング*9について勉強しなきゃと思う。
野村 英登「チープな人文情報学の可能性について」*10
「チープな」と言っておきながら、これもある意味恐ろしい発表。中国学を対象として、研究活動やファンなどを含む巨大なシステムを記述してしまおうという内容*11。時間配分をミスって尻切れとんぼになってしまったのは残念。
*1: Coded Character Sets: History and Development
*2: Unicode Standard, Version 5.0, The
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*4:
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*6: 記号論のたのしみ―文学・映画・女 (岩波モダンクラシックス)
*7:
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*9:
*10:id:nomurahideto:20070302:p1
*11:id:moroshigeki:20061007:1160152118やid:moroshigeki:20061021:1158663485で謀議したことなので人ごとではないのだが、発表として聞くとやはり空恐ろしいのはなぜだろう。