素性・霊・種姓

相変わらず渡世の雑事に追われて研究が遅々として進まないが、一般文字=キャラクタ論*1について。最近読んだ津城寛文『折口信夫の鎮魂論』*2に関連しそうなことがあったのでメモしておく。

一般文字=キャラクタ論においては、キャラクタは素性(そせい; feature)の集合としてあり、それが編集可能性として表出している、というのが大まかな定義である。折口信夫らの「霊魂」観には、このキャラクタ概念との類似性が見られるように思う。

「霊魂」には貴賤、軽重があり、現界の職業の資格を保証するものもある。たとえば「稲魂」が憑依しないと稲の収穫を自由にできないし、「国魂」が憑依しないと国を領有できないので、為政者にはそれらを附着させたり、あるいは代替わりにそれを継承させるための「鎮魂」の儀礼が必要になる。代表的なものが天皇の資格を保証する霊魂である「天皇霊」(後略)。(p. 23)

たとえば「大日本世界教」を標榜した川面凡児(かわつらぼんじ)の鎮魂行法においてであるが、川面は微粒子状の霊魂観を説き、人体もその集合体であるから、実体的霊魂が人体の内外に出入りする。(p. 151)

折口や川面の文脈を無視して言えば、魂=素性という大雑把な等式を立てられるだろう。キャラクタは魂の集合体ということである。

で、折口によれば、その「魂」は儀礼だけではなく、歌謡などによる言霊(例えば恋愛の歌)によって相手(例えば好きな人)に送りつけたり附着させ固定化させることができる(編集可能である)のであるが、この言霊というものが発動するためにはコンテクストがないとだめ、というのが興味深い。

折口の言う古代信仰的意味での「言霊」とは、一連の意味を成す詞章の中に内在する実体的霊魂であって、それは初めてその詞章を唱えた神によってその中に籠められた威霊である。言霊を「断片的言語」「単語」「言語自体」に存在するものとするのは後世的である。そうした言霊の籠められた詞章を唱え、また歌謡を歌うことにより、内在・潜在の霊魂が遊離して自由になり、それが唱えかけられ歌いかけられた相手の体内に入っていき、そこで何らかの作用を為す―これが言霊の働きにより第一義の鎮魂歌謡の奏功する過程である。(p. 191)

ところで上の「天皇霊」に見るように、霊は素性(そせい)としてだけではなく素性(すじょう)を決定する要因ともなる。素性という言葉はもともとは「種姓」が転訛したものらしく、「スは「種」の呉音」などと辞書などには書いてある。種姓というのはサンスクリットのgotraの漢訳語で、家族、家族の姓、血統、家柄、氏族などを意味する(中村辞典)。唯識思想ではこの種姓を種子説で説明する。すなわち、仏になるための種子をもっている人だけが仏になれる、という考え方である(唯識思想家の一部では、先天的に仏になるための種子を持っていない人を想定するので、「すべての人は仏になれる」というメジャーな考え方と鋭く対立することになる)。このような先天的な種姓は、天皇霊のように継承できるものではないが、やはり似たような雰囲気があるように思う。

*1:id:moroshigeki:20061004:1159932851、id:moroshigeki:20061011:1160541115等参照。

*2:ISBN:4393291050:detail