千歳栄『慈覚大師円仁 追慕の情景』(東北芸術工科大学東北文化研究センター、2006年)が、東北文化友の会の会報とともに届く。今年3月、山寺から発見された円仁の頭部像や金棺などが重文指定された記念に出版されたとのこと。
遺骸を比叡山から山寺まで運び、木製の頭部像をかぶせて(恐らくはいろいろ服も着せて)山中の入定窟に安置したという。比叡山から運んだ人々は山寺付近に土着し、今もその子孫が住んでいるという。また、お盆の頃にある山寺の夜行念仏と獅子踊り(鹿踊り?)も、千歳氏の言うように東北の仏教文化を考える上で重要であると思われる。写真もきれい。
この本では、千歳氏による山寺の宗教的思想的位置づけについて述べられているが、いくつか納得できない部分もある。例えば「密教というのは自然主義」と氏は述べられるが、これは自然主義が何を表しているかわからないものの、多分山岳信仰などとの関連が強いことから来たイメージなのだろう*1。密教は本来、象徴的、儀礼的(記号主義的?)な宗教だと思うし、円仁はそういうのを(も)学んだはずだ。だから、その点だけ見るととても「自然主義」とは言えないのではないだろうか、と思ったりする。
また、
奈良時代は仏教哲学として南都六宗がありましたが、これは学問的で日本人の宗教として、まだなじんでいなかったと思います。平安時代になってやっとなじんできたと思います。例えば、最澄は比叡山、空海は高野山と、山にその本拠地を設けたということは、山は日本人の宗教心の基礎ですから、日本的な宗教の始まりを思わせます。
と述べられているが、奈良仏教=学問仏教という通説がここでも根強いことをうかがわせる*2。奈良時代の僧侶だって山林修行はしているし、東国や東北にだって南都六宗のお坊さんたちはたくさんいた。天台や真言の高度な思想体系が法相や華厳よりもなじみやすいということはないだろう。
東北、山形という風土に着目するだけでなく、上に述べたような象徴主義的な密教の面と、中国・日本などの山岳信仰の面、インド以来の神秘体験(観仏信仰など)の系譜などを総合的にリンクさせないと、国際人であった円仁が開いた山寺の奥深い宗教性は解明できないのではないかと思うが、いかがだろうか。