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ユニコード戦記─文字符号の国際標準化バトル

著者の小林龍生さんよりご恵贈いただきました。ありがとうございます。

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

内容も、語り口も、すばらしくおもしろかった、と言いたい。内容の一部は著者本人から直接聞いたことがあるものもあるし、すでに読んだことがある原稿の再録もあったりするのだが、それらも含めておもしろかった。

もっとも、文字コード関連の知識を多少なりとも持っていないと、「ISO/IEC JTC1/SC2/WG2/IRG」のようなメダパニ系呪文にやられてしまうかもしれない。逆に文字コードに詳しい人のなかでも、Unicodeの現状に不満を持っている人にとっては、規格制定側からの言い訳にしか読めないかもしれない。私の場合、文字コード技術についてはそこそこ知っている方だと思うし、Unicodeに対してもどちらかというと親しみを持っている(変な言い方だな。一応、Unicode ConsortiumのIndivisual Member)ので、本書の読者としては幸福なポジションにあったのかもしれない。

本書で一番考えさせられたのは、実はまえがきの「符号化文字集合のみならず、情報標準は、一般ユーザにとっては、通常は意識に上ることすらない所与のものであろう」という一文(p. 3)であった。(情報標準はとりあえず脇に置いておくとして)「所与のものであ」る、というのは、符号化文字集合、というより文字あるいは言語一般の本質の一つではないかと思われるからである。ここで言われている符号化文字集合の「所与」性は、自然言語に関する柄谷行人の議論を想起させる。すなわち柄谷は、日本語や英語などの言語が人工物であるにもかかわらず自然言語と呼ばれるのはなぜか、という問いに対して、「われわれが「自然」と呼ぶものは、人工でないという意味ではない。人間が作ったものでありながら、なおその作り方が究極的に不透明であり、むしろ、「人間」を作ってしまうような何かなのである」と述べている(『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』)。符号化文字集合の標準化のプロセスはきわめて明確なものであるし、本書を読めば、各国、企業、個人などの利害が錯綜した生々しいやりとりがリアルなものとして伝わってくる。しかし、ネイティブ(これも「自然」に近いニュアンスがあるかもしれない)スピーカーが自国の文化と文字とを結びつけ、理性的なはずの標準化の場を翻弄するさまは、まさに文字というものが持つ「所与」性が引き起こしているようにも見える。

国民国家や言語などの結びつきを相対化しようとするディアスポラ的視点を持った著者の「戦地報告」は、「戦記」というタイトルからも連想されるマッチョな感じのものではなく、文化人類学者による参与観察と構造分析の報告書のような印象がある。一方で、好奇心の赴くままに?自らすすんで標準化の坩堝に巻き込まれていく中で、英語能力を高め、国際標準の議論の方法を(そのパクス・アメリカーナ的あり方を自問自答しつつも)身につけ、実績(評価が分かれるところもあるかもしれないけど)を上げていった部分には、敬意を評するとともに、本書の読み物としての魅力を高めているように思う。

いま、私が酒井直樹氏の著作などに興味を持って読んでいた2000年頃に、小林さんと「知的ディアスポラ」についての議論をメールでしていたのを懐かしく読み直している。議論、といっても私が一方的に教わっている感じで、私からの貢献?といえばスチュアート・ホールへのインタビュー「あるディアスポラ的知識人の形成」のコピーを図書館でコピーして送ったぐらいのことなのだが、今思えば、現在私がやっている文字コード研究、あるいは人文情報学研究などは、小林さんの影響を強く受けているのかもなぁと思ったりもしている。