「ためらい」というシニフィアン

学会の懇親会後、よしのぼり君方法論懇話会リスタートについて、円町駅前のマクドで話をする。彼は3月に京都で開催される予定の懇話会で報告をする予定なのだが、どんな方法論を選択すればいいのか、悩んでいるとのことである。

シカ害がひどい地域では、絶滅しかかってるオオカミを復活させようという動きがあるらしい。人間のエゴでオオカミを絶滅に追い込んだ結果、シカが増えすぎて農作物を荒らすようになった。これは人間が生態系に反した行動をとったからだ云々。生態系に関する自然科学の議論が、住民のシカ殺しの正当化の理論に使われている。一方で、やっぱりオオカミには死んでもらおうという地域もあるらしい。オオカミが赤ん坊とかを食べちゃった、なんて事件が起きたら、生態系論による正当化の論理は簡単にひっくり返されそうである。

いずれも人間のエゴ丸出しな議論なわけだが、よしのぼり氏はその相反する議論に挟まれて、自分はより倫理的に妥当な立場に立てるのか、みたいなことをウンウン悩んでいるらしい(理解が間違っていたらご指摘下さい>よしのぼり君)。人間である自分の立場をカッコにいれて、「どちらも人間のエゴなのでダメダメ」というような両否定を安易にすることは、それこそ人間のエゴというものである。逆に人間であることを強く自覚して、最大多数の最大幸福的に、もっとも瑕疵が少ない「落としどころ」を見つけ、調停してみる、というプラクティカルな方法は、実世界では最も有益かもしれないが、その調停を実際にやってみない限り方法論に関する議論に益するところは少なそうだ。

「ためらい」があるということは、対概念として「ためらいが解決された状態」が想定されている。しかし、「ためらいが解決された状態」というのは、たいていの場合「ためらわなくてもよくなった時」にしか訪れない。よしのぼり君の逡巡は人間とシカとオオカミがいる限り、恐らく永遠に解決されることはない。「ためらいが解決された状態」とは、人間が絶滅するか、シカとオオカミの両方が絶滅してしまうか、どちらかしかない(オオカミとシカのようにティラノザウルスとステゴザウルスについて悩む人はいない)。

「ためらいが解決された状態」は恐らく、永遠に到達できないゴールである。そして「ためらい」はそれを指し示すシニフィアンなのである。そういう言葉はほかにもたくさんある。例えば「最強」という言葉は、『週刊少年ジャンプ』の数々のマンガが証明しているように、永遠に終わることのない運動である(この議論は、入不二基義氏の「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」*1を参考にしている)。

だから「ためらい」を解決してくれる魔法のような方法を探し求めるのではなく(多分それはとても難しい)、「ためらい」そのものを論じる方がいいんじゃないか、というような話を酒の勢いでする。いつの間にか私も、先輩面して偉そうなヨタ話を言うようになったものである。

*1:

現代思想2002年2月臨時増刊号 総特集=プロレス

現代思想2002年2月臨時増刊号 総特集=プロレス