ポルノと超絶技巧と顔

先日のプロレスの発表*1は、要領が悪くだらだらと話したために、聞いていた方には苦痛な面もあっただろうが、私としてはたいへん勉強になった(あと、プロレス好きな人が多いこともわかった (^_^;;)。

まったく考慮外のこととして、他の分野との比較について、いろいろご指摘頂いたのは収穫であった。プロレスにおいて「シュート」な瞬間を見出す喜びと、プロの女性 (^_^;; が本気で感じているんじゃないか?と見出す瞬間の共通性。試合運びの上手いレスラーがフィニッシュへ持っていく過程と、ポルノ映画の共通性。超絶技巧な演奏家が演目の困難さを伝えるためにわざと入れる表現と、プロレスにおける技の明白性(=「見えない技は技じゃない」性)との共通性。特に、河田さんに指摘していただいたポルノグラフィーの問題は、身体性(というか身体という記号)の問題、発表の中でも少しだけ触れた性差の問題に関連するような気がするので、きちんと考えてみたい。

また、発表の中で指摘したように、バルトの「レッスルする世界」*2では、観客の欲望(と言ってよいのかわからないが)に「鏡」のように反応するプロレスの「見世物」(スペクタクル)性*3や、プロレス的表現の直接性、無媒介性が強調されている。

この直接性、無媒介性については、研究会の中で岩松さんから「現前性」という言い換えも指摘して頂いた。実は「現前」という用語については発表準備段階で気づいていたものの、勉強不足から現前の形而上学=音声言語というようなデリダ的な連想ゲームが頭の中で支配的になってしまい、レジュメの中に盛り込むことにためらいが生じたために避けたという経緯があったのだが、それをものの見事に見透かされるような格好になったのである。なぜためらったのかと言えば、この直接性、無媒介性は、音声言語的というより、レヴィナスが『全体性と無限』*4などで指摘する「顔」という記号の問題に近いような気がしたためである。

実はこの「顔」という問題は、斎藤環『文脈病』*5において『千のプラトー―資本主義と分裂症』などと関連させて論じられていたものを参照したのであるが、斎藤氏はたいへん興味深いことにこの「顔」を「文字」に言い換えて定式化?しているのである(ちゃんと読んでないのでわからない部分もあるが)。とりあえず現在、「編集可能性として現れた世界の断面」*6としか言えていない一般キャラクター論に、議論の進展を促すヒントが得られないかと勝手に期待している。ただ、単なる勉強不足なのだろうが、精神分析の言説や用語というのは、何と言うか心に染みてこない(臨床というのが恐らくよくわかってないのだろう)。わかったようなわからんような、そんな気持ちにさせられるので、いずれ放棄してしまうかもしれない (^_^;;

*1:id:moroshigeki:20070219:1171089503

*2:

神話作用

神話作用

*3:発表では、これに入不二基義「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」の議論を重ねることで、自己書き換え系としてのプロレスという視点を提示した。しかしながら、岩松さんに指摘されたように、フィクションの問題としてこのような「うそ/ほんとう」的視点を提示するのは厳密に言えばずれており、そのへんは反省しなければならない点。

*4:

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

*5:

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

*6:id:moroshigeki:20061004:1159932851