日本印度学仏教学会第57回学術大会 1日目

大正大学に出張。打ち合わせをしたり、会議(幹事なので理事会と総会に出ないといけない)に出たり、興味のある発表を聞きに行ったり、花大の学生の発表を聞きに(応援に)行ったり、ご無沙汰な人々にご挨拶したり。

石井公成「「行学一如」の歴史的背景 ―橋田邦彦の主張を中心にして―」

駒澤大学の建学の精神とされている「行学一如」は、実は禅とは関係ない学校でも使われている。石井さんはまず、先行研究を紹介しつつ、この言葉が道元や曹洞禅の文献に基づくのではなく、『教育勅語』を絶対視し陽明学に傾倒していた戦前の医学者・橋田邦彦が、生命の把握という問題に悩む中で『正法眼蔵』と出会い、「行」と「科学」とが一体化した日本独自の「科学」を打ち立てようとする中で作られた言葉であると指摘。そして、橋田の言説が勤労動員や国家主義的教育を正当化する理論として称揚され、橋田自身も終戦直前まで文部大臣としてそれを広めた。それが現在もまだ残っているのだという。

「○○一如」というと、弓禅一如とか剣禅一如とかを思い浮かべるのだが、関係はあるのか?という質問をしたら、橋田の理論に先行するのは大正リベラリズムの教育思想であって、弓禅一如などは直接は関係がないらしい。実は少林寺拳法(というか金剛禅)の「拳禅一如」を含む教学が、弓禅一如とか剣禅一如とかと今イチ重ならないような気がしていたのだが、今日聞いた範囲では橋田の「行学一如」の方が近い印象がある。例えば、

師範学校をして真に教学一体の本義を具現せしむる道場たらしめ学行一如の本旨に徹して充分なる錬成を期するよう更に一段の努力を致されたいのであります。次に心身を一如とする健全有為なる皇国民の錬成を期するには体位の向上を目指して訓練を図ることが重要であります。

という「師範学校校長会議に於ける訓示」の文句は、特に後半部分は重なる部分も多いだろうと思う。もっとも、両者は文脈がまったく異なるので、似たような概念が並んでいるからと言って、そのまま直結させてしまうのは早計であることは言うまでもない。金剛禅思想の成立過程を考える上で、無視することができないコンテクストの一つだとは言えるのではないだろうか。

佐久間秀範「五姓各別の源流を訪ねて」

今回、最も楽しみにしていた発表の一つ。いろいろ書きたいことはあるけど、時間がかかりそうなのでパス。

ちょっと話はそれるが、部落差別論、ケガレ論などの文脈でインドの差別について論じられる場合、varṇaを「種姓」と呼んでいるのだが、五姓各別論なんかで言う「種姓」は言うまでもなくgotraなので、この用語には違和感がある。もちろん何らかの背景があってのことなのだろうが、五姓各別論の研究をしている者としては、いつか取り上げたいネタの一つだったりする。その意味でも、佐久間先生の発表はいろいろ勉強になった。