ニッポンの思想

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。年賀状は今から出します。すいません (^_^;;

ところで、昨年末にふとんでゴロゴロしながら読んだのがこれ。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

80年代のニューアカからゼロ年代の東浩紀氏まで、新書一冊にまとめたのは正直凄いと思う。もちろん、その結果、個々の思想についてはかなり大ざっぱなまとめ(細かく言えば、明らかに誤解と思われるものも散見される)になっているわけだが、マクロなまとめというのはそれはそれで価値があると思う。

個人的には、80年代のニューアカを80年代後半から90年代にかけて(つまり数年遅れで。高校〜大学ぐらい)受容したこともあって、この本で取り上げられている90年代では、特に福田和也氏の本はまるっきり読んでない(宮台真司氏のもほとんど読んでない)。だから、へー、そういう人だったの、と勉強になったりした。また、たくさん読んで、自分なりにわかっているつもりになった人(中沢新一氏とか柄谷行人氏とか)についても、私とは違う、あるいは気付かなかった点が書いてあったりすると、これまたへーなるほどね、と勉強になった。この手の本は、こういう気付きがあることに価値があるのだろうと思う。

「これがあれを滅ぼすだろう」2.0

2002年3月、漢字文献情報処理研究会メールマガジンに「これがあれを滅ぼすだろう」というコラムを書いたことがある(http://www.jaet.gr.jp/mag/005.txt)。ちょっと長いが全文(一部改変)引用してみよう。

「いやはや、あなた、世も終わりですな。学生どものあんならんちき騒ぎは、生まれてこのかた見たこともありませんよ。近ごろのろくでもない発明とやらが、何もかもだいなしにしちまうんですよ。大砲だの、セルパンチーヌ砲だの、臼砲だの、とりわけドイツからはやりだしたあのやっかいな印刷術だの。もう写本もいらん、本もいらん! てわけです。印刷術は本屋殺しですよ。いよいよ世も終わりですなあ」

冒頭から引用で恐縮ですが、これはヴィクトル・ユゴーの小説『ノートル=ダム・ド・パリ』 で登場人物たちによって交わされる会話の一部です(『ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)』、p. 26)。

これと同じような発言を、最近、目にすることはないでしょうか? テレビやインターネットなど、メディアの発達によって活字離れ・本離れが起きていることについて危機感を煽る言論が盛んなのは、多くの皆さんがご承知のことと思います。中には『だれが「本」を殺すのか』などと言う上の「本屋殺し」と瓜二つのタイトルの本もあり、よく売れているとの事です。また、『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊』という本もありますが、本によって知識を得たために権威を権威と思わなくなった「学生どものらんちき騒ぎ」と比較するとなかなか皮肉なものです。

さて、『ノートル=ダム・ド・パリ』からもう一箇所、もっと具体的な部分から引用してみましょう。ここでは、印刷技術という新しいテクノロジーを前にした神父が次のように嘆きます。

司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建物をながめていたが、やがて溜息をひとつつくと、右手を、テーブルにひろげてあった書物のほうへ伸ばし、左手を、ノートル=ダム大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目を書物から建物へ移しながら言った。
「ああ! これがあれを滅ぼすだろう」
(中略)彼は何か深い瞑想にふけっている様子で、ニュルンベルクの名高い印刷機で刷りあげられた二折版の本の上に折り曲げた人さし指を置いて、じっと立ち続けていた。(p. 175)

ここだけではちょっとわかりにくいので、続いてユゴーによる解説を聞いてみましょう。

わたしの考えによれば、このことばの意味には二つの面があったようだ。まず一つの面は聖職者としての考えである。印刷術という新興勢力のまえにおののく聖職者たちの恐れをあらわしている。グーテンベルクの輝かしい印刷機を目前にした、神に仕える人びとの恐怖と驚嘆の気持ちを示している。(中略)信仰と言う鎖から開放された人類がざわめき群らがり集まる気配をはやくも耳にした予言者の悲痛な叫び、ゆくゆくは知性が教義の足もとを掘りくずし、世論が信仰をその王座から蹴おとし、世界がローマを揺り動かすことを見て取った予言者の悲痛な叫びである。
(中略)だがいま挙げた第一の、おそらくしごく簡単な考えのほかに、いっそう近代的な考えがもう一つ隠されていたように思われる。(中略)つまり、人間の思想はその形態が変わるにつれて表現様式も変わっていくのだ、新しい時代の代表的思想はいつまでも古い時代と同じ材料や方法では記録されない、さすがにじょうぶで持ちのよい石の書物も、さらにいっそうじょうぶで持ちのよい紙の書物にとって代わられることになるのだ、という予感なのである。(pp. 176-177)

この、やたら知識をひけらかすロマン主義小説は、19世紀に出版されたものですので、15世紀当時の人々の意識をそのまま描写しているとは思えませんが、「人間の思想はその形態が変わるにつれて表現様式も変わっていく」という洞察は正鵠を射ています。現在、活字離れが本を殺すとヒステリックに叫んでいる人々は、そもそもその「活字」や「本」がそれ以前のメディアをすべてではないにせよ滅ぼし、またそのメディアと不可分であったはずの「思想」もその巻き添えにしてきたことを知らないのでしょうか。時代が進んで自分の考え方と異なるものが出てきたときに、人はそれを堕落や改悪と見る傾向が強いようです。

これと同様に、人文学の、特に古典研究にコンピュータ利用がこれから必要不可欠となるであろうことは間違いないでしょうが、現在、これらのことについて研究したり、あるいは試行錯誤を重ねてデータベースを構築したりすることが、実際のテキスト読解を中心とした作業と同等に評価されているかと言えば、まだされていないというのが現状です。それどころか、古典とコンピュータとを結びつけるのを(先の本が殺されると叫ぶ人々と同様に)生理的に嫌がる人は少なくありません。「古典研究にコンピュータなんかいらない」「コンピュータばかりをやっていると、テキストを読むことが疎かになるのではないか」などという批判を受けるたびに、筆者は先ほど引用した『ノートル=ダム・ド・パリ』のシーンを思い出すのです。

確かに、コンピュータと言う新しいメディアが伝統的な学問や研究方法を「滅ぼす」可能性があることは否定しません。しかし、現在主流である研究方法もまた、それ以前に主流であった研究方法を「滅ぼす」ことによって成り立ってきたということを棚に上げて、コンピュータ利用だけを一方的に批判するのは不公平ではないでしょうか。

このコラムは、まだ現在ほどデジタルリソース(データベース)がなかった頃に、「古典研究」の「伝統的な学問や研究方法」のことを年頭に置いて書かれたものであるが、今日のGoogleブック検索問題などを踏まえると、ここで引いた『ノートル=ダム・ド・パリ』の一節はますます重い意味を持ってきているようにも思われる。今日では出版不況が叫ばれる一方、Googleブック検索や我が国の国会図書館をはじめとする世界的な書籍のデジタル化の潮流が喧伝され始めている。また、著者の印税を9割にという提案があるなか、Amazon Kindleを筆頭とした電子ブック業界が何度目かの正直でメジャーになりそうな雰囲気を背景に個人が印税35%の電子書籍を出版できる時代 - Amazon Kindleの衝撃:In the looop:ITmedia オルタナティブ・ブログなんて記事が書かれ、「出版社っていらねんじゃね?」的な雰囲気が漂いつつある。逆に「デジタルが本(というより出版社)を滅ぼすだろう」みたいな発言も、そこここから耳に入ってくる。

しかし、これは単にデジタル化の問題ではないようにも思われる。最近コミケ文学フリマには、学術研究系の同人誌が出店されることが増えてきた(12月29〜31日に開催されているコミケには東浩紀氏らの評論誌をはじめ、いくつかの学術系の同人誌が発売されている)。そもそも学会誌や大学紀要などはプロの出版社を介さない場合がほとんどなのだが、そういう地味で専門的なものとは違い、商業的にも成功しそうな高度な内容とデザインを兼ね備えたものが出版社を介さず同人誌として流通している現状は重く見るべきだろう。

もちろんこれの背景には、DTPソフトなどの普及や、ブログ、SNSTwitterなどの情報発信とコミュニケーションのためのプラットフォームの広がりなど、広い意味での「デジタル化」の影響があることは無視できない。しかし、これらのツールは出版社をはじめとする既存のプレイヤーにも開かれている。PublisherはPublicそのものの変化に対応できるのか、と言う点が問われているのだろう。

仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイドMOVIE大戦2010

年末の忙しいときだというのに観てきた。

まずはディケイド。「完結編」と書いてあるが、完結はしていないような気が (^_^;; それはともかく、劇中の「ディケイドは過去のライダーを思い出すために存在するのだ! だからディケイドに物語はない!」というようなセリフはかなり衝撃であった。結局ディケイドも固有の物語を獲得し「おれたちの物語はこれからだ」的な感じで終わるのだが、「ディケイドに物語はない!」を徹底すれば『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』に言う「大きな非物語」のインターフェースとして(東浩紀氏の時代認識が適切であるかどうかはともかく)それはそれで象徴的な作品になったと思うのだが。

Wの方は吉川晃司かっこいーの一言に尽きる。後半グズグズにならずに、この路線で突っ走っていただきたい。最後にちょろっと顔出しをする仮面ライダーアクセルの存在が不安といえば不安だが…。

てれびくん 2010年 02月号 [雑誌]

てれびくん 2010年 02月号 [雑誌]

白川静 一〇〇歳から始める漢字

寄稿しますた。

全体の目次は
白川静 -
「ユリイカ」「現代思想」の雑誌発行、人文諸科学の専門書の出版社「青土社」
をごらん下さい。

文字キャラクター〕を生み出す儀式 白川静の漢字論によせて」と題した駄文は、

みたいな内容です。これは、『新常用漢字の文字論』に載せてもらった「一般キャラクター論としての文字論の可能性」と姉妹編(と言うか、同工異曲)になっています。文字というのは、呪いであり、絶対に当たる占いなのだ!というトンデモ文字論。

北朝鮮版 力道山物語

先日、花園大学で集中講義をされた夏目房之介先生と、講義終了後、談笑しているときに紹介した本:

北朝鮮版 力道山物語

北朝鮮版 力道山物語

とても1995年に描かれたとは思えない、『大阪パック』*1花くまゆうさくテイスト溢れる、ファン必読のマンガである。

*1:つい先日まで開催されていた[http://www.hanazono.ac.jp/museum/2009kamigata:title=花園大学歴史博物館2009年度秋季企画展 上方ゆかりの絵師たち 併催:幻の漫画雑誌『大阪パック』]で展示されていた、明治時代の漫画雑誌。

今年のサンタさん

今年、サンタさんが持ってきてくれたのは以下の3点。

おねえちゃんには、

Tamagotchi iD ピンク(たまごっち アイディー ピンク)

Tamagotchi iD ピンク(たまごっち アイディー ピンク)

おとうとには、

仮面ライダーW メタルシャフト

仮面ライダーW メタルシャフト


仮面ライダーW(ダブル) 変形ガイア恐竜 ファングメモリ

仮面ライダーW(ダブル) 変形ガイア恐竜 ファングメモリ

ファングメモリは26日発売なのに、サンタさんはどこからか手に入れたようです。

仮面ライダーW関係のおもちゃは、おもちゃ屋さんでは軒並み売り切れ(シンケンジャーのおもちゃは全然売れていない (^_^;;)、Amazonでは業者が値段をつり上げるという始末で、ディケイドを短くして放映時期をずらしたのは大正解だったようです。

世界中の子どもたちが、来年一年も健康で、よい子でありますように。

次世代観光情報システムの目指すべき方向性

Twitterでつぶやいたことを(多少改変して)転載:

卒論指導の流れで井出明さんの「次世代観光情報システムの目指すべき方向性」を斜め読みしたが、けっこうおもしろい。観光は観光者、観光される側を含んだ自己書き換え系であり、インターネットなどの発達によってそれが顕著になっている。そういうシステムにおける観光は、時空間を超えた追体験(誰かの旅行体験をネット上で読んで追体験したり、自分で行って追体験したり、自分でブログに書いたり…)であって、どっかに行って何かを見るという一回性の体験に限定しないほうがいい。

観光写真や3次元モデルを共有することを目的としたGoogle Earthってまさにインターネット時代の時空を超えた追体験=観光システムのひとつと考えることはできるだろうな。体験の共有って意味ではかなり不十分だけど。

また、時空を超えた追体験という意味では、たとえば、このあいだの北條さんの発表との共通性も生まれてくる。人物伝や巡礼と、観光との連続性が情報学・システム論によって再論されているということかも。おもろい。

こういうのを人文情報学(仮)とか呼びたいよな〜と呟いてみる。

追記: @GenTarumiさんに関連情報をご教示いただきました。ありがとうございます。

@monodoi 「聖地巡礼」もこの観点から→虚構観光論は宗教ツーリズムによくあてはまりますたい http://bit.ly/6kAAoH :宗教を実践と信念の体系だとエコツーリズムでも応用可能 http://bit.ly/7xkW7R 1:01 PM Dec 24th webで monodoi宛

http://twitter.com/GenTarumi/status/6987782068

虚構観光論,You don't know what Tourism is, but...はおもしろいっす。