奈良仏教と密教

根本誠二『奈良仏教と密教』を斜め読みだん。Twitterで少し感想を書いたが、ここにも書いておく。

奈良仏教と密教

奈良仏教と密教

奈良仏教に対して平安仏教(最澄・空海)の画期性が強調されてきたこれまでの日本仏教史に対して、奈良仏教からの連続性、継続性をもっと見ないとだめだ、という問題意識は、私も同様の問題意識を持っていることもありたいへん共感できる。

奈良国立博物館での二〇〇五年の特別展の際に標榜された「古密教」という概念は、簡単にいえば、平安時代以前の密教のあり方で、「雑密」と同様な概念を与えられた呼称である。それに対して平安以降の密教のあり方を「新密教」ないしは「雑密」に対して「純密」そして、いわゆる「平安密教」と称しているのである。はたしてそのように際だって言うことができるのであろうか。

奈良仏教史研究の立場からすれば、こうした「いわれ方」は奈良仏教と平安仏教との間に連続性を認めない、さらに両者に優劣をつけようとする立場を反映した見解であるといわざるを得ない。私はむしろ、平安仏教で花開いた教理教学的な要素は、すでに奈良仏教に出そろっていた、ないしはすでに体系的に整っていたと考えたい。(7頁)

本書の題名にもある「奈良密教」というのは、天平期において密教化した奈良仏教が、平安初期にも継続していたし、平安仏教(密教)の基盤であった、ということを言うための「造語」(8頁)とのこと。

仮説的ではあるが、日本人が仏教を受容した当初から「密教」は存在していたと考えたい。その道具の存在が奈良仏教の変革によってより鮮明となったのが、まさに天平期であったと考えたいのである。こうした観点からも、私は、奈良仏教(密教)は平安仏教(密教)の基盤、ないしは母体であるという意味において、あえて変革後の奈良仏教を「奈良密教」という造語をもって語り上げたい。(8頁)

この「密教」という用語には違和感がある。本書では様々な「仏教者」の活動の事例が紹介されるが、その中には通常、密教には含めない好相行なども多い。密教をどう定義するかにもよるが、神秘体験的なもの、呪術的なものは何でもかんでも「密教」と言ってしまうのは、山部能宜氏らの研究が蓄積されてきた今日においてはもう通用しないのではないかと思うのである(山林修行を行い、神秘体験をバリバリして、病気を治す方法も説いた天台大師は密教の人なのだろうか)。同様に本書では、密教=「現世的意欲」の肯定・加持祈祷という家永三郎説を肯定的に引いているが、であれば、例えば最澄の『守護国界章』で徳一との教理的な論争を「国界を守護す」「加持とせん」と言っているのをどう解釈するのか、とツッコミたくなる。とは言え、これまで注目されて来なかった側面に光を当て、奈良後半〜平安初期の仏教史の連続性を見ていこうという態度は、先にも述べたように共感できるし、いろいろ勉強になった。私も以前ちょっと書いたことがあるが(「相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響 ―『四分律疏飾宗義記』に見える仏身論を中心に―」『戒律文化』2、2003年3月など)、鑑真一派の律以外の側面とかは、もっと注目されてもよいと思う。本書で指摘されている、法進の菩薩戒が師の鑑真からではなく曇無讖(東アジアにおける菩薩戒の重要人物の一人)から直接受けたもの、という平安末の伝承も非常に興味深い(115頁)

細かくなるが、他に気になった点についてもあげておく:

  • 日本霊異記』をメインの史料として使っているが、『日本霊異記』に書かれていることを「史実」として扱う最近の傾向については批判もある。景戒の「冷淡な筆致」については参考になるが、あくまで景戒の見方であって奈良時代の「実状」ではないだろう。
  • 行基をめぐる評価が変化したのは、桓武天皇・善珠ラインを背景にした「奈良仏教界における戒律観の変容に対応するもので、「瑜伽師地論」に基づく戒律観から、「薬師経」的な戒律観への変容が考えられる」(90頁)とするが、これは『瑜伽論』あるいは瑜伽戒の扱いが雑すぎだと思う。
  • 玄昉は当時「唐代仏教の権化」であり、であるがために律令政府に警戒されて失脚させられた、という指摘(56頁)は興味深い。本書の問題点ではないが、そうだとすれば(時代はぐっと下がるが)凝然らが玄昉の中国における師を中央から離れていた智周にしているのはなぜか、という疑問点が残る。
  • 「解深蜜経」(解深密経)を「呪術的な経典類」とする(127頁)は、単純な間違いだろう(直前で参照している吉田靖雄氏が間違ってるのかもしれないが)。