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入門 哲学としての仏教

竹村牧男先生だけに期待したのだが、ちょっとがっかり。

入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)

入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)

本書はその名のとおり仏教を哲学として学んでみてもおもしろいよ、というスタンスの入門書である。「仏教は哲学である」というのは、最近ではBernard FaureさんのUnmasking Buddhism.なんかで批判的に検討されたりもしているが、私も、たとえば仏教を『もし仏』のように「楽しむ」ための一つの道筋として、「哲学としての仏教」にもまだいろいろ面白い部分が残っているのではないかと思う。

Unmasking Buddhism

Unmasking Buddhism

しかしながら本書は、残念ながら「仏教って西洋哲学と比べても遜色ないんです、いやそれより古くてすごいんです」という、あまり哲学的ではない態度に貫かれているように思われる。私(あまり自分は哲学的な人間であると思っていないが)の考える“哲学的な仏教”のイメージは、例えば(竹村先生がよく引用している)西田幾多郎を使って哲学をしている永井均氏の『西田幾多郎―「絶対無」とは何か』みたいな方法である。永井氏は「他人の哲学の解説がそれを使って自分の哲学をすることによってしかできないように、自分の哲学のほうも他人の哲学の力で引っ張ってもらわないと進めないという面がある」と言う。これは「他人の哲学」が切り開いた道を通らない限り、その先の哲学的な問題に辿りつけない、というような意味ではないかと思うが、本書は単に仏教の教理を説明するだけで、何かの問題(仏教ですら問題にしていなかった問題)に斬り込んでいこうというような態度は(残念ながら)見られない。

また、その仏教の教理の部分も、ちょっと問題があるように思われる。たとえば大乗仏教在家起源説はさすがにもう言わない(言うとしても、冒頭の聖徳太子のように、エクスキューズを入れる)方がいいと思うし、上座部のことを「小乗仏教」という蔑称で呼んだりするのは、スマナサーラ長老の本が売れている今日、マーケティング的にも(もちろん倫理的にも)間違っているのではないかと思われる*1

*1:私は別にスマナサーラ長老に肩入れしているわけではないが(瞑想やアビダンマに関する著作は、他の仏教書と同様、興味深く読ませていただいているが)、スマナサーラ長老の本が一般に売れていたり、このブログでとりあげたこともある『みんなの寺 絵日記 「夫婦でお寺をはじめたよ」の巻』などのように伝統教団のお坊さんがミャンマーに修行に行っている本が出版されているということに無関心な仏教研究者が多い(ように思われる)ことに強い危機感を持っている。