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救済の日

読んだ。おもしろかった。

救済の日

救済の日

この世の終りへの旅 - moroshigeki's blogで感動して以来、西岡兄妹の作品を6冊ほど買ってまとめ読みしたのだが、幽霊話とか街を彷徨する話とか、似たようなモチーフ、シチュエーションの作品が、特に短編に多い(まあ、そういう読み方をするのがよくないのかも知れないが)。もっとも、全部同じ話というわけではなく、『心の悲しみ』の表題作のように、擬西洋風な作品が多い中にある仏教マンガなどがあったり、同じようなモチーフでも少しずつ変化しているのがおもしろかったりする(『心の悲しみ』の「私の幽霊」と『子供の遊び』の「2月の幽霊」など)と言った具合に、それなりにバリエーションもあったりするのだが。

心の悲しみ

心の悲しみ

子供の遊び

子供の遊び

ともあれ、ビジュアル的にもテーマ的にも、良くも悪くも一貫性がある西岡兄妹作品の中で、このキリスト教的終末観を下敷きにした『救済の日』は特異な位置を占めているように思われる(この作品に限らず、この作家は長編の方がおもしろい気がする)。この作品を他の作品群と区別しているのは、主人公の内語の扱われ方ではないだろうか。本作以外の作品では、主人公の内語は主人公の(しばしば絶望的な)境遇の描写であることが多い(その代表が『死んでしまったぼくの見た夢』ではないかと思われる)が、本作では、西岡兄妹作品のそのような面を多分に共有しつつも、内語と境遇とのあいだの隔たりを感じずにはいられない。その証拠になるかわからないが、他の西岡兄妹作品ではしばしば主人公のパートナーとして登場する女性が主人公の心境=境遇の外面化でしかない場合が多いのに対して、本作品におけるパートナー的な存在である主人公の指を咥えた「胎児」は、主人公とは隔絶した存在である、という点は指摘しておいてもよいだろう。また、他作品に比べて言葉による説明(理屈)やわかりやすい象徴が多い(ように感じる)のも、そのような印象を与えているのではないかと思う。もちろん、主人公が世界とは独立の自我を持っていることに対して、近代的な自我だよね、やっぱし、みたいなことを言いたいのではない。しばしば内語=境遇的な自閉的な語り口が、絶望的なモチーフでありながら予定調和的な安心感みたいな印象を読後感として与えていたのに対して、このハンパな?内語≠境遇ぐあいが作品に適度な緊張感を与えているような気がするのだ。そして、この緊張感は、単なる表現上の問題ではなく、この作品のテーマ(それが作家や解説者の言うような「戦争」であるのかどうかについては、些か疑問もあるが)に関わってくるのだろう。
死んでしまったぼくの見た夢

死んでしまったぼくの見た夢