日々是修行

佐々木閑先生からご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

朝日新聞をとってないのでどんな連載なのか読んだことがなかったのだが、とてもおもしろく読めた。一般向けの(時に日本の仏教教団に対する鋭い批判を含む)読み物としておもしろいだけでなく、「修行」というタイトルからもわかるように、研究者にも実はあまり知られていない仏教の実践論に関する入門書としても優れていると思う。たとえば死体が腐っていく様を墓場で観察する所謂“不浄観”については、よくメメント・モリ的な解釈をされることが多いが、本書に書かれている通り、

そうやって死体の姿かたちを脳裏に焼き付けたら、大急ぎで寺まで戻り、自分の部屋に入って念をこらす。死体の様子をありありと思い浮かべ、それをとっかかりとして精神集中に入るのである。(第八話)

ということが、実践に関するテキストには普通に書いてある(「大急ぎで」かどうかはわからないが (^_^;; この手の瞑想法はたいてい実物の前でやったあとに、それがない場所〔「寺」に限らないが〕でもやる。ない場所でできなかったら、ある場所に行ってやり直す)。そしてこの手の「小乗」系の修行方法は、東アジアにちゃんと流伝しているのである。

私は大学院で仏教の授業をやらせてもらっているのだが、院生たちは案外この手のことを知らない。この本はさくっと読めるので、これからは課題図書にしよう。院生なら本当は原典を読んだりした方がいいんだろうけど、私の授業のテーマは同じ実践系でも観仏体験だからなぁ (^_^;; 『清浄道論』から始めてたら一年じゃ終わらない。私が幸いにしてこの手の知識を齧ることができたのは、東洋大学の森章司先生の四分律の授業を受けることができたから(発表では“黄門”の出家に関する規定の部分を担当した記憶がある)、そしてそれが東アジアまで伝わっていることに確信を持てるようになったのは山部能宜氏の(それこそ『清浄道論』から話が始まっている)著作に触れるようになってからである(感謝)。

最後に、いくつか抜き書きしておく。

これは意外なことかもしれないが、仏教は本来、非社会的な宗教である。世間の片隅で、「私はどう生きていったらよいのか」と思い悩む人々をそっと受け入れ、そっと育てる。そこに仏教の存在価値がある。(第四二話)

本書の他の部分は金剛禅=少林寺拳法の教義と重なるところも多いが、ここだけは決定的に対立しますな (^_^;;

釈迦の仏教は、「人には、仏の教えで助かる者もいれば、そっぽを向いて別の道を行く者もいる。せめて、こちらを向いてくれる者だけでも助けよう」と考える。自分たちの考えを認めない者を「教えの敵だからやっつけよう」などとは思わない。「こちらへ来てくれないのは残念だ」と失望するだけだ。(第八二話)

私見では五姓各別説は、上のような考え方がベースになっていると思う。それを差別思想と言うなら言え。

釈迦の教えの本当の姿は、学問と実践が交わるところに立ち現れてくる。(第九七話)

韓国でもそういう動きがあると以前聞いたことがある。座禅ばかりしているお坊さんが、唯識の勉強を始めた、みたいな話。