日本的中華国家の創出と確約的宣誓儀礼の展開

馬場南遺跡(神雄寺跡)発掘調査 現地説明会 - もろ式: 読書日記に関連して。「いままでの古代寺院・仏教観を一変させる」と言われている神雄寺であるが、北條さんが「飛鳥の須弥山石から国分寺までを、神仏を保証者とする王への誓約の場と位置づける考え」(「神雄(尾)寺」出現:やはり誓約の場か? - 仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈)をすでに発表されている。たまたま手元にその論文があったので、簡単に抜き書きしておく。

北條勝貴「日本的中華国家の創出と確約的宣誓儀礼の展開 ―天平期律令国家を再検討する視点として―」(『佛教史学研究』42-1、1999年9月)

7世紀後半に、須弥山(像)を使った儀礼が行われている。

須弥山於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮会、暮饗覩貨邏人。(『日本書紀斉明天皇三年(657年)七月辛丑)

甘檮丘東之川上、造須弥山、而饗陸奥与越蝦夷。(『日本書紀斉明天皇五年(659年)三月甲午)

又於石上池辺作須弥山、高如廟塔、以饗粛慎三十七人。(『日本書紀斉明天皇六年(660年)五月是月)

これらは、他の服属儀礼の例と比較すると、天皇への服属宣誓と天皇からの饗応がセットになった服属儀礼だと考えられる。このタイプの宣誓では自己呪詛(もしこの誓いを破ったら、神様の罰で自分の子々孫々がひどい目にあうように)が特徴であり、また誓約においては禊の場(川とか池とか)と神の依代(山とか)が重要で、「〈仏教的神南備〉を模造した須弥山像は、制約の保証者として四天王を勧請するための〈仏教的依代〉と考えられる」。

この須弥山(像)を使った服属儀礼はしばらくして斎槻にとって代わられる*1。また8世紀に入ると「超越者を媒介に為されていた服属の誓約も、直接王自身に対して行われるようになり」「日本的中華国家の完成形態である大宝律令の始動とともに、表面的にはその役割を終える。しかし、疫癘の流行・飢饉の頻発、蝦夷の不穏な動向、対新羅関係の緊張などにより中華国家の理念が動揺した天平期に至り、再び国家儀礼として執行されることになる」。

『類聚三代格』等所収の天平1213年2月14日*2〈国分寺創建勅〉の願文にも、上の宣誓儀礼と同様の構造が見られる。願文には自己呪詛の表記が見られ、四天王(国分寺=金光明四天王護国寺)の依代と思われる他の伽藍などに先行して造営された「基壇上に立つ本格的瓦葺多重塔」が考古学的に見つかっている。また国分尼寺=法華滅罪之寺は「あらゆる罪悪を滅却することにより全人民・国土の清浄化を実現」する禊の機能を持たされたと思われる。

「花厳経を本と為す」で始まる天平感宝元年閏五月二十日〈聖武天皇施入勅願文〉にもやはり自己呪詛の表現が見える。「平岡定海氏によれば、蓮華蔵世界を視覚化した蓮華変相図では、中尊を示す教源をより効果的に表現するため、唐の中期頃から須弥山を図像の中央に配するようになったという」。東大寺の大仏の台座にも須弥山が描かれている。「東大寺大仏は聖武を一生補処の菩薩として位置付けるとともに、斉明朝須弥山像の機能を継承し、誓約の場である諸国々分寺を結ぶ〈誓約のネットワーク〉を成立させたものと考えられ」、先の須弥山像や国分寺と同様「対蕃夷的性格の濃厚な色彩」があった。

※ 補足:北條さんが授業でこのことをしゃべった時にでた受講生からの質問と答えが「須弥山ですが、斎槻の仏教的再現なら菩提樹を使えばいいと思うのですが。 - 来 る べ き 書 物」に載っている。

*1:北條さんによる補足: 「正確には斎槻の方が早くて、間に須弥山が入ってきます。この頃はちゃんと発掘が進んでいなくて分からなかったのですが、須弥山像の設置は斉明朝の飛鳥の園池開発と関係するのでしょう。」

*2:北條さんによる補足: 「日付については『続紀』が3/24、『三代格』が2/14ですが、ぼくは六斎日との関係から後者が正しいだろうと思っています。」