おたく文化研究の諸問題

id:monodoiさんのお誘いで、比較日本文化研究会の大会テーマ「おたく文化―森川嘉一郎氏をむかえて」 - 比較日本文化研究会に参加した。森川嘉一郎氏による「おたく文化研究の諸問題」という講演とディスカッション。氏のユーモア溢れるプレゼン能力の高さに感心する (^_^;;

お話の前半は、森川氏の著書『趣都の誕生*1のおさらいみたいな感じ。中盤で、日本の歴史における「外圧」と固有文化の成立についての議論が出る(遣唐使などを通じて中国の先進テクノロジーが入っている時期が「外圧」、それが終わってしばらくすると『源氏物語』や神仏習合などの日本固有の文化が醸成される、みたいな話)。『趣都の誕生』もそうだが、森川氏のこの大局的な議論のしかたは――神仏習合って最近中国起源説が盛り上がってるよな〜とか思いつつも――建築学特有なのかな〜と思いながら聞いていた。実際にビルとかを造ったり都市設計をしたりする場合(あるいはそういうものを対象として表象文化論的に読み解こうとする場合)、そこで要請されるのは(見えてくるのは)大規模な資本を動かすための「大きな物語」なのだろう。

その後、森川氏はヴェネツィアビエンナーレでのおたく:人格=空間=都市の展示のお話や、おたくやマンガをはじめとする現代文化の研究のための重要資料が国会図書館をはじめとする図書館にほとんど所蔵されていないという現状などを指摘したところでタイムアップ。

コメンテータの山田奨治さんは『禅という名の日本丸*2での議論をベースに、海外での評価によって龍安寺の石庭が「禅の庭」として見出される過程を紹介、文化の起源は事後的に見出されるということを指摘したうえで、マンガやアニメを「日本の文化」として売り出そうとしている国の政策などを批判した(逆に国は、儲けにつながらないアーカイブなどの仕事をすべきだ、とも主張)。

同じくコメンテータの表智之氏は、海外から来た人・メディアなどが京都国際マンガミュージアムに対してオーソライズされたマンガの定義を尋ねるという事例をあげ、マンガの体系化、あるいは「これがマンガだ!」と言えるのようなものの必要性を指摘(一方、京都国際マンガミュージアムが資料収集も目的としている以上、特定の価値観で何かを排除してしまうようなことにならないよう、慎重であるべき点も強調された)、そしてそのようにオーソライズすることで、それに対するオルタナティヴも生まれやすくなり、クリエイティブな活動を助長することにもなるのではないか、というようなことを述べられた。

これらの講演、コメントを聞いた個人的な感想としては、おたく的な現象を語るのに「外圧」は必要なのだろうか?ということ。森川氏は講演で「おたくは、よりダメ(社会的に評価されない、ぐらいの意味)なものを志向する」というようなことを述べていた。これは別の角度から見れば、おたくは自分の価値観が固有であり特殊であることを確認するために、必然的にコミュニティを必要とする、ということではないかと思う。外圧に対して「鎖国」をするのではなくて、コミュニティを形成した上でその中で特殊であろうとする。このような人の集まり方は、ネット上の宗教系のコミュニティなどにもよく見られる。たまたま、おたく的な活動がビジネスと結びつきやすいために、外圧とか大資本とかとの対比で語られやすいように思うが、そんなものがなくても彼らは勝手にコミュニティを形成し、そしてその中に壁を作っていくのではなかろうか。

そんなことを森川さんに直接投げかけることなく、id:smasudaさんに懇親会で聞いてもらったりしている私はヘタレですいません。

*1:

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

*2:

禅という名の日本丸

禅という名の日本丸