その声は誰の声? ─〈声〉の現在とポピュラーカルチャー

おお、飲んでいたら日付が変わってしまったよ (^_^;;

ということで、標題の会に行ってきた。非常に刺激的で、いろいろ考えさせられた。

増田聡さんの「声とは何か:ポピュラーカルチャーにおけるその諸機能」を簡単にまとめると:
声は従来、身体や人格と結びつけられてきたが、デリダの音声言語中心主義をふまえると「われわれが自明視する声と人格の隠喩的なつながりは、「密接ではあるが切断されうるもの」として見なされるべきであろう」。また、バルトは「声の肌理」という言い方で、声の非分節的な側面と身体との固有な結び付きを示そうとした。川田順造はさらにそれを文化一般に拡張し、声の超分節的な側面の重要性を指摘した。テクノロジーの発展は、身体の現前を欠いたまま声の超分節的な側面の生起を可能にし、身体を欠いた声が別の記号に結びつけられることによって人工的な「人格・のようなもの」が生成される(声の人格呼び出し効果)。

小松正史さんと今井隆介さんの発表もおもしろかったが、面倒なので省略(すんません)。

最後に空気を読まず、ぐだぐだな質問をさせてもらった(のだが、質問下手なのでうまく言えなかった。受け身の取れない投げっぱなしジャーマンみたいな質問ですいません orz):

  • 増田さんのまとめでは、声の超分節的な側面を人格や身体に結びつける議論をしており、それは一定の意義があると思うが、
    • 分節的な側面(つまり言葉)だけでも「人格・のようなもの」が生成する例があるのではないか(実際、今井さんの発表でいくつか例を出されていた)?
    • 超分節的な側面を強調すると、楽器の音色が人格に結びつけられるような例も出すことができ、「声」に限定されない音一般の問題になってしまうのではないか(他の先生からも「書は人なり」みたいな声以外の例が出されており、そうなると音ですらなくなってくる)?
      • もし「声」ということにこだわるとすれば、声に固有な問題(声と人格などとの固有の結びつき方)みたいなものはあるのか?

これに対して増田さんからは、声と人格等との結び付きは社会的に構築されるものであって、声と人格などとの固有の結びつき方はないんじゃないか、みたいなお答えをいただいた。確かに、本質主義的な議論は慎重に避けなければならないだろうと思うが、一方でレヴィナスドゥルーズが「顔」について議論したように、声にもまた固有の問題系があるのではないかという期待もある。