チューニングの時間

毎年のことだが、4月頭の10日間ぐらいは、新入生向けのイベントや会議が目白押しで、体力を支払いながらストレスを大量購入する日々が開講まで続く。久しぶりに学生相手にしゃべるので、春休みで軟弱になった喉には、特に辛い毎日である。

4日も朝8時半集合、帰宅したのは18時であった…と書くと、「なんだ、全然辛くないじゃないか」と思われるかもしれない。しかしこれは、所謂「雑用」である。大学教員の仕事としてよく言われるのが、研究・教育・学内行政(雑用)の3つであり、その割合は(いろいろな説があるが)4:4:2とか5:3:2とか言われる。もちろん、この比率がきちんとそのとおりになっている大学は、今や皆無と言ってよい状況ではないかと思うが(雑用をサボりまくり、学内の信用を捨てても、研究時間を確保しようとする強固な意志をお持ちの方もいらっしゃるが)。

研究と言ってもいろいろである。私は今書いている原稿の準備としてDVDを3本ほど観ようと思っている。家族から見れば「パパは“しんどい、しんどい”と言ってるけど、夜中にこっそりDVDなんか観て遊んでるからだ」となるが、この3本に限っては仕事である(もちろん仕事じゃないDVDも観てるが)。一般キャラクター論なんてものに手を出し始めた以上、マンガだって一生懸命読まなければならない。もちろん辞書を引き引き漢文のテキストを読んだりもする。プログラミングもする。論理学のテキストを読んでる場合は読んでるというより考えていると言った方がいいので、端から見るとぼーっとしてるようにしか見えないかもしれない。

あと、あまり理解されないことであるが、研究に取り組む場合にはチューニングの作業が必要である。雑用をしている時の心身は明らかに漢文を読むときのそれとは異なる。私の場合、脳みそをチューニングするのは割と簡単なのであるが、感覚器官の精度とか、皮膚感覚の開放の度合い、志向性とかを調整するのにけっこう時間がかかる。イメージトレーニングみたいなものなのであるが、実は授業の準備とかをしている時もこれに時間を取られたりする(まだやったことがない授業のために、自分の心身をチューニングするのは結構面倒くさい)。チューニングをしている時間というのも、やはり端から見るとダラダラしているように見えるらしい(本をぱらぱらめくったり、Webページをつらつら見たりしてるからね)。個人研究室というのは、チューニングの場所として与えられているのではないかと思うときがある。

チューニングの難しさは、対象によっても異なる。私の場合、仏教漢文のテキストは割と簡単にチューニングできる。あと、プログラミングもそうである。これは多分、研究者として訓練を受けるごく初期の段階に身につけたことであるので(プログラミングは小学生ぐらいからやっているが)、切り替えの優先順位が高いのであろう。逆に、DVDとかマンガとかの場合は、意外とチューニングに時間がかかる。漢文を読むみたいに伝統化され身体化しやすい方法(ハビトゥスですかね)とは異なり、DVDを観るというのは全然(研究としては)身体化されてないのでかなり意図的にチューニングをしないとならず、観終わったあとも没入した状態から抜け出るのにも体力がいるので、往復の両方でストレスがたまる。

ルーチンワークというのは大事だなと思う。チューニングにおけるストレスを軽減するためには、決まったことを決まった時間にする、言い換えればチューニング自体を身体化してしまうのが多分一番よい。大学においてルーチンを阻害してくれるのは、突発的な会議とか、学生が突然研究室に来ることである。逆に授業期間中は、体力的にはしんどかったりするけど、「授業がありますから」の一言で突発事態を回避できることが多いので、ストレスは意外に少ない。

そんなこんなで研究をしているわけであるが、雑用で一日の大半が奪われてしまうと、寝る前の数時間がそれにあてられる。ご飯を食べたりちびたちの世話をしたりしながら、脳みそは研究していることが多い。その結果、「パパ、また話を聞いてない」などと言われることになる。また、寝る直前までそんなことをしていると、当然のように夢の中でもその作業が継続する。私はよく、夢の中で研究をすることが多い。ほとんど毎日のように夢を見るので、かなり夢をコントロールできるようになっている。ちょっとしたチューニング作業なら、夢の中でできるようになってしまった。ところがそんなことをしていると、次の日の朝はろくなことがない。疲れた疲れたと言っているのは、以上のような具合なのである。