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「電子書籍のつまらなさ」ではなくて「電子書籍をめぐる議論のつまらなさ」

先日、電子書籍をめぐる議論のつまらなさ - もろ式: 読書日記というエントリを書いたのだが、はてブTwitterなどでの反応を見ていると、ちょっと誤解を生じてしまったようである。私は、今のインタラクティブ性のない(紙の書籍の延長線上にある)電子書籍がつまらない、と言いたいのではなく、電子書籍をめぐる現在の日本での議論がつまらない、と言いたいのである。

言うまでもないことだが、電子書籍のおもしろさ/つまらなさは、インタラクティブ性の有無とは関係がない(実際、『ユリイカ』の原稿でもほのめかしたことであるが、80〜90年代の様々な試みは一発芸的で、冷静に考えるとつまらないものが多かったようにも思う)。おもしろい作品は紙だろうと電子だろうとおもしろいし、つまらないものはどんなに先進的な技術を使っていてもつまらない。各メディアの特性を使っておもしろい作品を作る人はいるが、誰もがそのメディアを使えばおもしろい作品を作れるわけではない(逆に、過去の試みがうまくいかなかったとしても、これからインタラクティブ性のあるおもしろい電子書籍が作られるかもしれない)。

ただ、80〜90年代のデジタルテクストをめぐる海外(特に英語圏)での議論には興味深いものが多かったし、今でもおもしろいものが出ているように思う。そして繰り返しになるが、ある人の間テクスト性をめぐる議論がおもしろかったとしても、そこでとりあげられている間テクスト性を意識した作品がおもしろくない場合があるように、作品やメディアのおもしろさとその作品・メディアをめぐる議論のおもしろさとは独立したことである。かつての『ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール』や『ハイパーテクスト―活字とコンピュータが出会うとき』、最近のだと『Avatars of Story (Electronic Mediations)』などはけっこうおもしろいと思ったし、特にデジタル教科書をめぐる議論においては現在でもかなり有効だと思うのだけど、日本の電子書籍をめぐる議論のなかではそれらが参照されていない(ように見える)、というか忘れられている感さえあるのはつまらないなぁ、というのが先のブログにおける主張である(もしデジタル教科書のインタラクティブ性等に関する研究において、これらの先行文献が参照されている例があればご教示頂ければ幸いです。とっくに批判されてるよ〜というのでもOKです)。