「自分が対象としているのは、一般の利用者であって、人文学研究者ではない。」

當山日出夫先生のデジタル・ヒューマニティーズ(071212)今後のゆくえが心配だ: やまもも書斎記にこんなのがあった。立命館大学のグローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」で、火曜セミナーという定例イベントがあるらしいのだが、そこで地理学専攻のRA(リサーチアシスタント)が、こんなタイトルの発表をした。

「地図情報のカタログサイトの開発−Web上の地図カタログ−」

それに対して當山先生が「人文学系の研究者にとっては、GISそのものが、メタ情報なのである。あるモノやコトに、いつ・どこで、を確定していく、あるいは、解釈が、研究者によって揺れることもある。このことについて、どう考えておいでなのか?」と質問したそうである。「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」と名乗っているのだから、誰だって人文学の方法論とのずれを質問するに決まっている。そしたらこのRAさんの答えは次のようなものだった。

自分が対象としているのは、一般の利用者であって、人文学研究者ではない。

この発言を聞いた瞬間、激怒するというよりも、唖然としてしまった・・・「GCOE:日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」のRAという立場でありながら、そして、そのプログラムの一環であるセミナーの発表の場において、上記のような発言が平然と語られることは、このGCOEのプロジェクトの根幹にかかわる重要なことではないだろうか。

いやあ、痛い。

# と同時に、こういうことが公になるブログっていいな、とも思った。

私が心配しなくても、こういう人はそれなりに教育されていくんだろうと思う。ただ、この件に限らず、じんもんこん界隈(情報処理学会・人文科学とコンピュータ研究会とその周辺)に、この手の無理解と言うか、愛のなさと言うか、いずれもニュアンスが違うのだがともかくそういう感じの人がいて、困ってしまうことがあるのは事実である。

この手の人にはいろいろなパターンがあって、

  • 人文学の対象(遺跡とか文化財とか)に少しでも関連していれば、それでOKという人
    • 論文の冒頭で「○○は人文学において重要なアイテムであるが」みたいに一言断ってはいるが、あとは人文学の方法論とは関係ない話を延々するパターン。
    • 「教育利用」とか言って逃げるパターンもあり。教育とか展示はとても重要なんですけど、そこにも膨大な学知があることを知って欲しいわけで。
  • 人文学の対象に対する愛はあるが、人文学の方法論に対する愛がまったくない人
    • 愛があれば方法の差なんて、とか思ってるんだろうか。愛を吐露されても困る (^_^;; わけだが、人文学の研究者にも「愛のみ」系が多いのも事実。
  • 人文学の方法は「科学的」じゃないからダメと思い込んで、「科学的」手法を導入しましたと堂々と仰る人

などいろいろ。いずれも人文学の方法論に対する勉強が足りないわけだが、そもそも日本においてはmethodologiesの授業がほとんどないことを考えると、仕方がないことなのかもしれない。逆に、人文学べったりで情報(科)学の諸理論を知りもしない人もいるわけで、どっちもどっちだったりするのだが。可能ならば、人文学の方法論と情報学の方法を併せて学べる“人文情報学”カリキュラムを作ってみたい(情報歴史学コースでは、そこそこやってるつもりだが、まだ充分ではない)。

普通、こういう状況がずっと続くとなると、学問領域として発展しないと思うのだが、先日のじんもんこん2007を見てもかなりの活況である。「いつまでもフロンティア」「永遠の萌芽的領域」戦略なのかもしれない(それはそれであってもいいと思うが)。