落ち葉掃除

大学院時代の先輩である橘川さんが、京大人文研の共同研究班(真諦三蔵の研究)で発表するために上洛したので、いっしょに食事をすることになる。吉田叡禮さんも来て下さって、楽しい時間を過ごす(関係ないですが、祇園の某所でN先生のボトルを勝手に飲んでしまいました。すみません (^_^;;)。最近私が取り組んでいる観仏信仰の話をしたら、お二人が興味をもって議論にのってくれて、たいへん充実した議論ができた。

そんな中、庭の枯葉を掃除することは苦痛か?苦痛じゃないか?という話になる。現在、私の家の前は柿の落ち葉だらけで、掃いても掃いても落ち葉がなくならない。掃いた後を振り返ると掃く前と同じだったみたいな落ち葉掃除は、人によっては極めて非生産的で苦痛であるという。私は苦痛じゃないばかりか、割に好きな作業である(原稿執筆から逃避するのに最高という話もある (^_^;;)。雪かきなんかも、面倒な時はあるが、嫌いではない。庭木の下枝取りとかも好きである。大家さんに「マメですねー」とか言われるが、時間があるとしたくなって好きでやっているのだから、褒められてもあまりうれしくない。根が田舎者なのかもしれない。

里山がエコロジーだとかなんとかよく言われるが、田舎者はエコロジストではない、というのは落ち葉掃き一つとっても痛切に感じる。落ち葉の下にはコオロギをはじめとする虫たちが隠れている(今日もでっかい芋虫が出てきた)。彼らの生活圏を奪いながら、人間にとって快適な空間を作り出すのが庭の掃き掃除なのである。

ちなみに、柿の落ち葉というのをこれまであまり意識して見たことがなかったのだが、今の家に住むようになってから、案外複雑な模様をしていて美しいことに気がついた(写真)。