Requiem aeternam dona ei, Domine

そこら中でニュースになっているが、ヨハネ・パウロII世が亡くなった。1978年からローマ法王だったというので、私が教会に通っていた頃には法王だったんだなぁ。 世の中にはヨハネ・パウロII世がやってきたような世界平和とか救済とかそういうことを宗教の本質と思っている人がいるけど、それはまったく誤解だと思う。もちろん、それらも宗教の一部ではあるが、大きなふれ幅をもつ振り子の片方にすぎず、反対には宗教的真実を求めた結果による狂気(と世人が思ってしまうもの)があるのだ。それゆえ、ヨハネ・パウロII世のこれまでの行動は、ローマカトリックを背景に持つものであることは言うまでもないが、それ以上に彼(と彼を支えた人々)の個性に依存するところが大きいのだと思う。それだけにこの死は重い意味があるように思う。 そもそも我々は、法王の「異常」さをどれほど理解しているのだろうか。人類最高水準の祈りをそれこそ毎日のようにやっていた人のことを。教会に通っていた頃から思っていたことだが、「祈る」という行為はまじめにやろうとするとものすごく難しい。だから法王の口から出てきた言葉に共感してしまうのは、金メダリストのインタビューに共感するのと同じで、多くの場合誤解なんだろうと思う(だからって、しちゃいけないというわけではもちろんないのだが)。 せめて、VictoriaのRequiemでも聞きながら、法王の死を悼もうと思う。でも今日はあまり心に響かないなぁ。 ところで、うちの大学の二代前の学長であった河野大通老師は、たしか、ローマ法王と手紙のやり取りをしてたとか聞いたことがある。勘違いだったら教えて下さい。