イノセンス続き

最近、学生と話していて評論とはなんだろうなんてことが気になり始め映画狂人日記なんぞをぱらぱらめくっているので「予想通り面白くなかったといった言葉では到底いいつくせぬ耐えがたい陰惨さを漂わせた映画」なんてまわりくどい言い方で切り捨ててみたい欲求とは到底言い得ない抑え難い感興に苛まれている訳ではない。 それはともかく前回の続き。この映画についてはもうとうにいろいろ論じられているのだろうから、それらとかぶるかもしれないが。 最後にネットから来てくれた“少佐”が「私にはもう葛藤がない」というようなことを言うわけだが、この「葛藤がない」というのを、裏を返せば「葛藤がある」というのをどう捉えるかが、この映画(あるいはエヴァなんかも)を理解する(って言い方はやだね)上での一つのポイントになると思う。バトーさんをはじめとする蘊蓄大好きな登場人物たちは、言ってみれば葛藤というものをネガティブなものととらえ、しかしそれを個々に引き受けることなく一般的な問題として議論してしまう。おわりの方で「孔子様」が何度も引用されることは象徴的だと思うが、「葛藤」の消滅には二方向あって、幼児化するか老人化するかの二つなんだけど、エヴァも含めて現代は明らかに幼児化的葛藤消滅の方が勢力が強い(大人になるということはまさに葛藤できるようになるということなのだが、現代社会ではなぜかそれがネガティブに考えられ、葛藤を停止するポジティブシンキングが幅を利かせている)。最後にバトーさんは助け出した女の子の幼児性にぎゃふんと言わされたりする訳で、その意味ではそちらは志向していないのだが、かといってそれを否定することもできず(キムに対する一定の同情?からすると混同している節も見える)、老人化することには抵抗がある。これは、ポジティブシンキング的傾向に違和感を持つ現代人(の一部)の心性がよく現れているように思える。 うーん、適当に書くとこんなもんか。まあ、さらしておきましょ (^_^;;