電子書籍をめぐる議論のつまらなさ

AppleiBooks Authorを発表したが、「教科書」というキーワードを前面に出しているためか、所謂「電子書籍元年」の盛り上がりと比べると、いまいち話題になっていないような気がする。しかし、マルチメディアやインタラクティブ性を持つデジタル教科書、電子教科書とは、ある意味、広い意味での電子書籍(以下、マリー=ロール・ライアン氏の言葉を借りてDigital Narrative Textと言うことにする)の歴史を概観すれば、きわめて正統な継承者であるように、私には思われる。

以前、拙稿「なかなか変わらない世界―Digital Poetryに寄せて」(『ユリイカ2011年10月号 特集=現代俳句の新しい波』)や「電子書籍の/とインタラクティヴィティ」(『東洋学へのコンピュータ利用 第23回研究セミナー』、2012年3月)でも書いたことであるが、日本における電子書籍の議論は、Digital Narrative Text全体の議論から見れば、ごく一部分についてのみ語られているような気がしてならない。「電子書籍の/とインタラクティヴィティ」の冒頭部分を引用しておこう。

2010年に人口に膾炙した「電子書籍元年」、そして2011年に公開されたEPUB 3 によって、日本国内における電子書籍イメージについての共通認識が固まりつつあるように思われる。そのイメージとは、特にEPUB 3の公開において縦書きなどの日本の組版に対応したことが大きく喧伝されたことからもわかるように、要するに“紙の書籍の電子版”とでも言うべきものである。全文検索や音声自動読み上げなどによってより読書が多様化するだろうし、絶版がなくなったり読みたい本がダウンロードで即座に手に入るようになったりするのも従来の読書のあり方を変えることかもしれない。また、AmazonAppleなどによる自費出版サービスは、無名の作家を世に送り出すことを容易にするだけでなく、研究者による学術同人誌や大学の研究論文集などの出版にも福音をもたらすかもしれない。しかしこれらはいずれも紙の書籍の延長線上にある考え方であって、電子書籍特有のメリットかと言われるとそうではないように思われる。

一方、個人用のコンピュータが普及しはじめた1980年代、あるいはインターネットが注目されるようになった1990年代から現代に至るまで、コンピュータというメディアによってはじめて可能になる文学(的)作品が登場し、少なからぬ量の作品が流通し読者(プレイヤー)を楽しませている。しかしながらこれらの作品は、文学的要素を持っているにもかかわらず、電子書籍とは異なるコンテンツやアプリケーション・ソフトウェア(典型的にはゲーム)として区別されている。たとえば、「ハイパーテキスト小説」を自称する井上夢人『99人の最終電車』電子書籍と呼ぶ人はあまりいないだろうし、ストーリーを追いかけるだけでインタラクティヴ性がほとんどないソフトウェアに対する「ノベルゲーム」という折衷的な呼称は、この曖昧な状況をよく表しているように思われる。“紙の書籍の電子版”であることが悪いと言いたいのではなく、そのような限定されたイメージが普及し固定化することによって、電子書籍による表現の可能性の幅を狭めたり、電子書籍というメディアの持つ表現の固有性を隠蔽したりすることになるのではないだろうか、と思うのである。

このような見立ての一つの傍証として、村上龍氏の電子書籍『歌うクジラ』をとりあげたい。この作品では、坂本龍一氏の音楽などが組み合わされたことで話題となったが、そのオフィシャルサイトにおいて村上龍氏は「「小説のために作られた音楽」というのは、ひょっとしたら歴史上はじめてかも知れないと思ったのだ」と述べているのである。村上龍氏のなかでは、1980年代、90年代において盛んに作られたマルチメディア文学等の取り組み、あるいはその1980、90年代の取り組みの子孫に当たるアドベンチャーゲームやノベル(≒小説)ゲームが、「小説」とは異なるものとして観念されているのであろう。このような意識は、電子書籍があくまで紙の書籍の延長線上でとらえられており、マルチメディアやインタラクティブ性というものが電子書籍の議論では中心にならない、というのとパラレルな気がしてならない。

同じように、日本において論じられる電子書籍のメリットは、紙の書籍との比較しての議論がほとんどである。たとえば「指定されたページは存在しません」においては、「紙版の書籍に対して電子書籍のメリットはどのような点だと思いますか」という質問が設定されており、項目として上がっているのは次のものである。

  • 動画なども利用したリッチなコンテンツ
  • 物理的な保管場所を節約できる
  • いつでも購入できる
  • 書店に行く手間が省ける
  • 絶版本や手に入りにくい本も手に入る
  • 持ち運びが便利
  • 検索機能が使える
  • 在庫切れがない
  • 文字が見やすい
  • 書籍より安い
  • ブックマーク(しおり機能)がある
  • アノテーション(線を引いたり書き込んだりする機能)がある
  • そのほか

もちろん、紙の書籍自体たいへん発達したメディアであり、その特性を電子書籍においても再現しようという努力はすばらしいものである。しかし、紙の書籍のプラスアルファではない、紙の書籍とはまったく異なる電子書籍独自の読書体験、あるいはコンテンツ作成についての議論は管見の範囲ではほとんど見られないように思われる。

一方、海外、というか英語圏では、紙の書籍の延長線上にある(日本で観念されるような)電子書籍に加えて、Interactive Fiction(日本でいうテキスト・アドベンチャー・ゲーム)をはじめとするインタラクティブな文学(的)作品が現在でも作られ続けており、しかもそれらがDigital Narrative Textというような言い方で一括して捉えられ、分析の対象となっている、という歴史がある。そこでは、紙の書籍との比較においてではなく、電子テキストをはじめとする所謂「ニューメディア」の理論的な研究も積み重ねられており、たとえばDigital Narrative Textにおけるインタラクティブ性を分類するとどのような種類があるのか、といったような議論*1が様々に見られる。日本と海外(英語圏)の議論を比較したとき、明らかに後者のほうが電子書籍の豊かな歴史と可能性について議論をしているように思われる一方、前者がいつまでも紙の書籍との比較に拘泥していること*2にある種のつまらなさを感じてしまうのである。

そして、冒頭にも述べたが、AppleiBooks Authorで「教科書」を売りだそうとしているのは、電子教科書、デジタル教科書が、マルチメディアやインタラクティブ性などを持つDigital Narrative Textの後継者のひとつであり、しかもそのなかで大きなビジネスとして成立しそうな分野だからであろう(Interactive Fictionなどは、先に述べたように現在でも作られ続けているが、残念ながらビジネスとしては今のところ発展しそうにない。良くも悪くもアマチュア的な世界になっているように見える*3)。言い換えれば、iBooks Authorは、Digital Narrative Textをめぐる議論の積み重ねの上に出てきたものであり、紙の書籍の延長線上にある電子書籍と、ノベルゲームやデジタル教科書とを分離して考えてしまう日本の議論の土壌においては、その意義は理解しにくいのではないだろうか。

*1:例えばMarie-Laure Ryan. Peeling the Onion: Layers of Interactivity in Digital Narrative Texts など。

*2:実はInteractive Fictionなどについての議論は、日本においては東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)』などに見ることができる。これについてはいずれブログ上でも論じたい。

*3:このあたり、日本のノベルゲーム市場が同人ゲームと密接に関係していることと関連するか。要考察。