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末木先生のご意見に対して

末木文美士先生*1が、今回の東日本大震災について、ブログで意見を述べておられる。

このエントリの末尾に「あまつさえ、まじめに考えようという人を、議論もせずにツイッターとやらで嘲笑し、暴力的に抹殺しようというのであれば、それは仏教者とは言えない悪魔の所行であり、僕は絶対に許しません。断固闘います。」と書かれている*2。「嘲笑し、暴力的に抹殺しよう」としたりするつもりは私には毛頭ないが、私が末木先生のこれまでの発言に対してTwitter上で批判的なことを書き、そこで「ちなみに私はどちらかというと自然現象派」と言っていることも間違いない*3Twitterがダメで他がよい、という理由がいささかわかりかねるところもあるが*4、ブログに卑見を書いておこうと思う。雑な文章なので、ご批正いただければ幸いである。

地震の原因は何か

最初に問題となった石原都知事の発言を肯定的に扱っている記事*5から現在まで、論点が多岐にわたり、議論の重心も移動しているように思われるが、とりあえず冒頭に上げたエントリに対して、私の考えを述べたい。

まず最初に、末木先生は次のように述べている。

地震津波がなぜ起るのか、それを純粋な自然現象として、自然科学的に追究することは必要です。けれども、いま問題にしたいのはそのことではありません。多くの人が災害で亡くなり、多くの人が被害を受けられたことを問題にしたいということです。もしあえて分けていえば、地震自体は自然現象といってもよいでしょうが、地震被害は自然だけでなく、人間が関わっているということです。自然現象論者も、自分の説は被害のことは無関係だ、などと言うのではないでしょう。そのことをはっきりさせておく必要があります。そして、僕は被害の問題まで含めて考える場合に、自然と人間の生活は相互関係的に、つまり縁起的に考え、一体として見ていくべきだと主張し、それを純粋に自然だけが原因だという説を誤りだと批判します

この部分については、概ね異論はない(個人的には、「自然」と「人間」という並べ方は、我々が人間であることによる素朴な直観は否定しないけれど、それにしても「人間」を過大評価し過ぎだろうと思うが)。ただ、そもそも「自然現象」論が出てきた背景は、「日本人のアイデンティティ我欲津波でそれを洗い流したらいい、やっぱり天罰」という石原都知事の発言を受けて、「我欲」が地震津波の原因なんかじゃないだろ、という文脈で出てきたものではないかと思う。<地震我欲→被害>と<我欲地震→被害>(あるいは<我欲→神仏→地震→被害>)では意味がまったく違うだろう(さらに言えば、もし<地震我欲→被害>を認めるとしても、なぜ特定の地域・時間の人々だけが代表して被害にあわねばならないのか、という問題は残るだろう。「親の因果が子に報い」ということなのかもしれないが、とりあえずここでは論じない)。したがって、末木先生が、

地震は自然災害だという論者は、それも仕方ないと言うのでしょうか。地震を自然災害とする論者を許せないのは、この点です。手を束ねて何もせずに、起ってしまえば、どんな巨大な被害も自然災害だから仕方ない、というのでは余りに無責任ではないでしょうか。

と述べるのは、曲解なのではないかと思うのである。

宗教の役割

ついでに言えば、末木先生の「小規模な農業が自然と人間の橋渡しをして、自然保護に尽してきた」や「自然は自然のままで放っておけばよいのではないのです」「伝統的な日本の宗教は、自然と人間の橋渡しをしてきました」などの発言は、あまりにも素朴に日本の「伝統」や宗教を肯定しすぎているのではないか、そしてそれを「保護」と言うならば、あまりにも人間のエゴ丸出しではないか、と思われてならない。人間による自然の「克服」を背景とした日本の宗教的・神話的言説にみられる「神殺し」の伝承や、エコロジー的に正しいと言われている「里山」が(人間から見れば)「荒れた」自然を極めて人工的に管理している環境であることなどは、すでにいろいろなところで指摘されてきたことである(ダイダラボッチを殺した後に人外の山森が里山みたいになる『もののけ姫』なんてまさにそれがテーマ)。

こういうことを書くと「じゃあ人間よりも自然を優先しろというのか」と突っかかってくる人がいるのだが、そういうことではない(そういう主張をする人がいることも知っているが)。「自然と人間の橋渡し」とか言いながら、結局のところ人間にとって都合のいい、比較的安定した状態を理想的な自然の状態であると自然(あるいはその背景にいる神)に言わせようとしているだけではないか、と言いたいのである。そしてこれは、自然を「他者」としてみる見方ではなく、あくまで人間の代弁者とする見方でしかない。自然を「他者」と見た場合に我々人間が抱くことができるのは、極端なことを言えば、本質的に対話が不可能であり不可知であることへの絶望*6と、取り戻すことのできない負債の感覚ではなかろうか。そして宗教的言説は、自然=神を人間の代弁者とみる見方と、「他者」としてみる見方の、両方において用いられてきたのであろうと思う。

私は、個人的には原発はもうやめればいいと思っているし、都市開発の問題などについても末木先生の割と意見と近い。しかし、自説を主張することにおいて、自然と「対話」をしてきた伝統文化・仏教からの提言だ、と正当化したくもない。これは、自然に対するのと同じように、様々な考えを持っている/たであろう現在/過去の人々を(新聞記者がちょっと取材した結果を「被災地の声」と一括するように、あるいは政治家が選挙結果を「国民の声」などと一括するように)それこそ暴力的に一括りにしてしまうことに他ならないし、人文学がやるべきことのひとつは、このような暴力に対して抵抗することではないか、とも思う。もちろん、実効的な政策を行うために、政治家などの責任ある人々が、ある程度決め打ちをして仕事を進めていくことは、当然あるべきだろうし、っつーか早くしてくれ、とも思うが、一方で「決め打ち」のために伝統文化を持ち出して正統化すべきではないし、そのような仕事をする人々には「決め打ち」したことに対する負債の感覚もまた持って欲しいと思うのである。

*1:多分間違い無いと思うが、プロフィール等にまったく情報がないので、これまでの経緯がわからない人にはわかりにくいようだ。

*2:末木先生の発言に対するTwitter上での反応については、またか…末木文美士・国際日本文化研究センター教授が東日本大震災を「天罰」と主張 - Togetterまとめ「天罰」発言をめぐる末木文美士氏との対話(2011年5月5日) - Togetterまとめ震災と「天罰」発言をめぐって 末木文美士氏との対話(2011年8月27日) - Togetterまとめ等参照。

*3:たとえば8月25日のつぶやきを参照されたい。http://twilog.org/moroshigeki/date-110825

*4:ちなみに末木先生は、5月5日の段階では「ツイッターというのは、単に勝手な言いたい放題かと思っていたのですが、実のある議論を、たぶんボクより若いみなさんと正面からできて、改めて見直しました」と言っている。http://twitter.com/#!/Bunmao/status/66134662241730562

*5:天罰問題元原稿: bunmaoのブログ

*6:「自然」を「縁起による世界」と置き換えたらわかりやすいかもしれない。