唯識入門

以前読んだときはあまり印象に残らなかったけど、今回改めて読んでみたら、いろいろと発見があった。

唯識入門

唯識入門

半分ぐらいが『中辺分別論』をベースにしており、普段『唯識三十頌』『成唯識論』的世界にどっぷりはまっている(というほどではないな。単なる勉強不足)身としては新鮮であった。

また、最近の私の問題意識に対するヒントを得ることができたのは収穫であった。最近書いた「虫食いの跡が文字に見えることについて 文字と仏教 (1)」(『春秋』2011年1月号)というエッセイで、

しかし筆者は、むしろ唯識を心理や精神活動、あるいは言語論などの範疇でとらえようとするのは、誤解を増やすだけなのではないかと考えている。なぜなら阿頼耶識というモデルは、瞑想によって精神活動が停止(滅尽定)してもなお、その人が死なずに身体活動が維持されるのはなぜか?というような疑問に答えるために考案されたものだからである。阿頼耶識が認識作用によって維持しているのは世界(器世間)と身体であり、少なくとも凡夫である我々の目には阿頼耶識は世界と区別がつかない。仏教が我々の心の制御や浄化を目的とした宗教的な実践であることは間違いないが、精神活動がなくなったときに世界を維持している阿頼耶識は、むしろ心的な現象というより世界そのものであろう。

と書いたように、唯識=東洋の深層心理のように、阿頼耶識を心理的なものとしてのみ捉えようとすることは、かえってその本質を見誤るのではないかと思っている。なので、『中辺分別論』冒頭の「虚妄分別(=阿頼耶識)はある。そこに二つのもの(能取=分別するもの≒主観と所取=分別されるもの≒客観)は存在しない。しかしそこに空性が存在し、そのなかにまた、かれ〔=虚妄分別〕が存在する」に対する高崎直道先生の次のような説明は、我が意を得たりと思った。

たしかに、所取・能取がないということと、自性がない、ということは別のことです。少なくとも、所取・能取がないことが、ただちに虚妄分別が「縁起したものであること」の説明にはならないでしょう。だから、私はここで、この「空性」は修道論的な意味で、「なくなること」(=滅)の意味であると申しあげたのです。しかし、それは、虚妄分別が無自性であること、縁起したものであることを否定しているわけではありません。なぜならば、虚妄分別は「依他なるもの」と規定されているのですから。

そこで、考えてみますのに、唯識説では、ことばのうえの規定としては「空性」を修道論的に説いていて、そのかぎり、無自性という意味はないが、同時に「空性」ということばを通じて、この無自性、縁起したものであること、という点は、自明のこととして含まれているものとみなしていたのではないかということです。つまり、「空性」に修道論的意味とならんで、いわば存在論的な意味を含ませ、その両義性をたくみにからませていたのではないかということです。(pp. 115-116)

上のエッセイの連載では、虚妄分別=阿頼耶識が世界を生み出す、というのをひっくり返して、世界はそもそも心的である(世界は世界を再帰的に「認識」している)、というようなことを阿頼耶識論を手がかりに言ってみようとしているものなので、仏教学的な阿頼耶識理解からは逸脱しているのであるが、仏教学的にもそれほどはずしているわけでもない、というのは心強い気がする。

もっとも、この本は現在、絶版みたいである。なんてこったい。*1

*1:追記(2011-04-03):『[asin:4393112830:title]』に再録との由。失礼いたしました。