写真の存在論

素人目だが、これ、なかなかいい本かも。

写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想

写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想

バルト『明るい部屋』*1の精読を通じて、その思想を抽出しようという試み。最近、某氏と打ち合わせをしていた際、「『明るい部屋』って、バルトのお母さんに対する愛情みたいなものにばっかり焦点が当てられて、写真論としてはあまり読まれてないよねー」みたいな話を聞いていたのだが、ちょうどよいタイミングでこんな本が出た。この本はまさに、写真というメディア(本書の議論に即すれば、それはメディアですらなくなってしまうのだろうが)の本質について議論したものである。

私は写真についてまったくの素人であるし、『明るい部屋』についても写真を眺めたりぱらぱら拾い読みした程度であるので、本書で展開されている議論の是非は判断できない。しかし、バルトのあの独特な文体と形式で書かれた『明るい部屋』が、「意味」と「存在」という対立する概念(これは『明るい部屋』で説かれるストゥディウムとプンクトゥムに対応する)であざやかに読み解かれている様は、非常にクリアで説得的である。また、物語ることでしか存在にせまることができないという議論は歴史の物語論に接続することができるかもしれないし、認識論・存在論的な議論は唯識をはじめとする仏教の認識論的な議論の理解にも役立ちそうだ。是非、写真な人をはじめとしたいろいろな人の意見を聞きたいところである。

「存在」と「意味」についての筆者の議論は、要約すれば次のようなことである。

写真は過去の存在をその存在の意味を媒介することなしに直接われわれに経験させる、というのがバルトの考えである。言い換えるならば、写真は存在を与えるのであり意味を与えるのではない、ということである。(p. ix)

キャラクター論的な関心からすると、写真が撮影者らによって「意味」を与えられるという点は(本書の中心的な課題である「存在」の問題からはずれるかもしれないが)興味深い。

いわゆる一流の肖像写真家は、撮影される人物が与える印象と撮影された像が与える印象との一致を図って、いかにもその人らしく写っている写真を制作したり、あるいは逆に、その人物の性格や思想とは必ずしも関係のない何らかのメッセージ性を肖像写真に付与したりするなど、被写体に「意味」を担わせる技術を持っている。このようにして、写真にはさまざまな意味が付与される。(p. 18)

このような作為性を、バルトは端的に「写真は(意味については)嘘をつく」という。一方、このように与えられる意味=ストゥディウムに対して、存在=プンクトゥムは次のようにまとめられる。

バルトは写真という存在の本質を探る。そして、ストゥディウムを破壊して主観に突き刺さるプンクトゥムにその本質の模範的な表現を見定める。その本質は、一方で統一的な意味作用を掻き乱す「細部」として表現され、他方で過去の存在を現前させる「時間の圧砕」として表現される。(p. 58)

細部(といっても、小さい部分という意味ではないだろう)じゃない部分は、意味=ストゥディウムに回収されやすく、意味=ストゥディウムは常に現在における実践なので過去の「存在」の現前は「意味」を破壊する、ということだろう。

しかし、このように破壊者として現れるプンクトゥム=存在、バルトの別の言葉で言えば写真の「狂気性」は、社会によって記号のなかに回収され、馴致されていく。特にデジタル写真が普及した現代では、それが著しいと筆者は言う。

現実に起こっているこのような事態、デジタル画像とインターネットの普及した現代においてはさらに力を増したように感じられるこのような「イメージ化」(存在とのつながりの切断、画像の記号化)の動きは、写真の存在証明力が意味の圏域に回収されていく過程とみなすことができるのかもしれない。(p. 66)

この指摘は、キャラクター論におけるインターネットという環境の問題を考える上で、参考になるかもしれない。

ということで、刺激的な本である。

*1:[asin:4622049058:detail]