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経典に埋め込まれた身体的因果 ―仏教の実践論を考えるために―

シンポジウム: 身体からはじま(め)る思想(史)での発表資料を晒しておきます。この発表については、野村氏が読書をめぐる冒険 - Under the Hazymoonで全体と関連付けながらまとめてくれてますが、以下の原稿は発表時のアドリブや討論などで修正が加わるべき部分があるのをご了承ください。

1. 問題の所在

本報告は、仏教における実践論を考えるための前提となる、身体の問題について考察しようという試みである。従来、文献学であり思想史研究である仏教学において、仏教の実践的な面を研究するという場合、仏典に書かれた言葉を、テキスト全体で単一の意図を表現する体系の一部という前提で合理的に解釈するということが行われてきた*1。しかし、さまざまな修行のなかで、修行者個人に起こった主観的で一回性の神秘体験は、教理として解釈可能な都合の良い形で現れることはむしろ稀(もちろん、体験した当人や記録を残した人々によってそのように改変されることはあるだろう)である。その結果、教理的に解釈できない事例については、「実際に実践をしなければ実践についてはわからない」(主観に基づくものなので、文献だけでは実践について研究することはできない)という形でかっこにいれられ(敬して遠ざけられ)たり、密教や道教、山岳信仰シャーマニズムといった一見了解しやすい枠組みのなかにはめこむことで説明したことにしてしまったりと、十分な検討がなされてこなかったのではないか、という印象がある。

しかしながら、実践を単に主観に基づくものとしてしまえば、修行というものが代々継続されてきたことの説明が難しくなる。個々の宗教活動の現場において、これらの体験を教理に対応するものがないからといって無視することができるはずはないし、また同じ修行をすれば同じような体験が得られるということがある程度なければ、教団として組織的に指導することも難しいだろう。修行にはある程度の再現性、共有可能性があるはずなのである。

そして従来の研究状況を振り返ると、このような再現性は必ずしも教理に対応する形では存在しないのではないか、という作業仮説をたてることができるのではないかと思う。本報告では、このような再現性を「身体的因果」という(検討の余地が多分にある)用語によって考察しようと思う。

なお、身体論というテーマ上、身体とは何かという問いを避けることはできない。しかし本報告では、論述の都合上、前半は単純な身心二元論によって論述を進め、最後に身心の問題について簡単な見通しを述べたいと考えている。

2. 身体的因果のあり方

2.1. なぜ名号を唱えると滅罪するのか

天台智邈の懺法などの影響の下に隋代ごろに成立したと推測されている『占察善悪業報経』*2の前半部分には、木輪を使った三種の占いが説かれている。その中の第二輪相は、過去の善業・悪業の大小軽重などを知るための占い(相法)であるが、それに付随して懺悔の方法と、その結果(=滅罪したかどうか)を確認するための方法が述べられている。

(1) 復往餘靜室端坐一心、若稱誦若默念我之名號。當減省睡眠、若惛蓋多者、應於道場室中旋遶誦念。次至夜分時、若有燈燭光明事者、亦應三時恭敬供養悔過發願。若不能辦光明事者、應當直在餘靜室中一心誦念。日日如是行懺悔法、勿令懈廢。
(2) 若人宿世遠有善基、暫時遇惡因縁而造惡法、罪障輕微其心猛利意力強者、經七日後、即得清淨除諸障礙。如是衆生等業有厚薄、諸根利鈍差別無量。或經二七日後而得清淨、或經三七日、乃至或經七七日後而得清淨。若過去現在倶有増上種種重罪者、或經百日而得清淨、或經二百日、乃至或經千日而得清淨。若極鈍根罪障最重者、但當能發勇猛之心不顧惜身命想、常勤稱念晝夜旋遶、減省睡眠禮懺發願、樂修供養不懈不廢、乃至失命要不休退。如是精進、於千日中必獲清淨。
(3) 善男子、若欲知得清淨相者、從始修行過七日後、應當日日於晨朝旦、以第二輪相具安手中頻三擲之。若身口意皆純善者、名得清淨。
(4) 如是未來諸衆生等能修行懺悔者、從先過去久遠以來、於佛法中各曾習善、隨其所修何等功徳、業有厚薄種種別異、是故彼等得清淨時相亦不同。或有衆生得三業純善時、不即更得諸餘好相。或有衆生得三業善相時、於一日一夜中、復見光明遍滿其室、或聞殊特異好香氣身意快然。或作善夢、夢中見佛色身來爲作證、手摩其頭歎言善哉、汝今清淨我來證汝。或夢見菩薩身來爲作證。或夢見佛形像放光而爲作證。(T17, 904a-b)

(1)には、昼夜を通し不眠不休で地蔵菩薩の名号を念誦あるいは黙念するという「悔過」の方法が説かれている。眠くなったら道場を周回するなど、不眠不休であることが重視されている。(2)では、能力の差や宿世の罪業の軽重によって、滅罪に必要な期間が異なることを述べている。一番ひどい場合には、命を落とすような行を要求している。(3)では七日ごとに第二輪相を行うことによって、懺悔が達成されたかどうかが確認できるという。(4)では、第二輪相以外に滅罪が確認できる現象として、部屋に光明や異香*3などが満ちたり、夢の中で仏や菩薩に見えて摩頂されたりするなどの観仏体験について述べられている。

ここで注意したいのは、不眠不休で名号を唱えることと、滅罪との因果関係である。このような行によって見仏体験が得られるということは、現在でも比叡山の十二年籠山行において同様のことが行われていることを指摘するだけでひとまずは事足りるだろう。つまり、行と体験との間には身体的因果関係を認めることができる。一方、肉体を酷使し同じ行動を何千何万と繰り返すという行為と、それによって得られる見仏体験が、なぜ懺悔となり、滅罪したことの証拠になるのかについては、はっきりとした説明が見られないのである。

もちろん、他のテキストからその理由を探すことは可能である。さまざまな経典、論書で説かれているように、前世について知ることができるのは仏のみであり、したがって見仏体験を仏が滅罪を証明する行為として解釈することは可能である。しかしながら、このような観仏体験が仏を観ることに限らないという点は留意しておくべきであろう。仏以外の菩薩や聖人を観仏体験の対象から排除することはないし*4、多くの場合師匠による確認と認定という方法がとられる。

この事例が示唆するのは、激しい「懺悔」の行によって見仏体験が得られるという身体的な因果関係と、その反面、「懺悔」という用語が通常持つ倫理的、精神的な面の欠如である。過去に自分がどのような罪業を犯したのかを凡夫は知ることはできないので、倫理的、精神的な懺悔を具体的にすることは不可能に近い。罪の重さやその消滅は、すべて身体的な現象(『占察経』ではそれに占いが加わる)として認知されるのである。

2.2. 越境する身体

この問題を考えるために、別の事例も見ておきたい。先に見仏体験の対象が仏に限らないことを指摘したが、阿弥陀如来に対して懺悔を行う比叡山の例や、「南無観、南無観」と唱えながら激しい行道を行う東大寺修二会の例*5など、そもそも行の対象となる本尊が多様である。従来の教理中心の解釈では、たとえば対象が阿弥陀仏から地蔵菩薩に変わったりすると浄土信仰から地蔵信仰への転向などと解釈されるが、上に見たように精神的な懺悔というものが必要とされない以上、信仰対象と懺悔の行とのあいだに強い関連性を見出すのはかえってその本質を見失う可能性がある。

さらに言えば、結果を得るための方法にも多様性がうかがえる。次に引くのは、叡尊が文永六年(1269)に信空に授戒したときの「付属詞」であるが、そこに叡尊が寛元三年(1245)に観仏体験を得たことが書かれている。

叡尊住西大寺寛元三年八月廿五日寅時如例後夜之行法勤之、五相成身観*6之後、心神忽然湛寂、宛如入定、非夢非覚、於空中有大光明輪、大聖文殊師利菩薩坐宝蓮華、乗金獅子王上、出現空中、予信心徹心胆、起立合掌、此時菩薩示曰為末代密法修行伝戒持律資、汝可授仏性戒灌頂印明、汝伝持勿令失、即授与給事終没空中、其後行法畢、倩憶冥授次第、任心所記也…

ここでは「五相成身観」という密教の修法によって観仏体験を得たことが述べられている。叡尊は生涯に何度も観仏体験をしているが、その初期の嘉禎二年(1236)では西大寺における懺悔、東大寺における「通夜祈請」や「参籠」によって得ており、オーソドックスな自誓受戒のパターンを踏んでいると思われるが、それ以外の方法も用いていたということであろう。

また、「好相日記」と呼ばれる史料には、「黒色の良薬」を用いた事例も見られる。

即如房沙弥戒好相日記
正和四秊正月廿四日始之、(本?)尊地蔵菩薩(二?)月七日々中夢依止老(僧?)仰云「戒ハ躰浄ニシテ方々成スルナリ、仍先可行礼拝ヲ即如我ガ礼スルカ、同共可礼」トテ、三度礼拝竟。同九日夜卯時、亦依止老僧仰云「此是良薬也。御辺可授与之」ト黒色歟トオホユル薬ヲ賜候之処、愚一身ヒサマツイテ(後欠)*7

この事例では、正和4年(1315)1月24日から恐らく2月7、9日までの約二週間のあいだに、地蔵菩薩を本尊とした何らかの行が行われていたことが推測されるが、それがうまくいかなかったためか、師僧より「良薬」が授けられているのである。後半が欠損しているためその後どうなったかはわからないが、この「良薬」は恐らく、見仏体験を容易にするような(幻覚を見やすくするような?)成分を含むものなのではないかと推測される。ここまでくると、もはや行をするということ自体も大きな問題ではなく、好相を得るという体験だけが重要ということになるかもしれない*8

これらの事例からただちに“修行においては体験が重要なのであって方法や対象はどうでもよかった”という結論を導くのは早計であろう。逆に、これらの事例が精神性を軽んじており、仏教として堕落している、と判断することも拙速な判断ではないかと思う。ここでは、思想史研究が重視する思想的な概念や領域を、身体的な現象がいとも簡単に越境し得るという点に注目しておきたい。

2.3. 肉食禁止の理由

ここまでは菩薩戒の自誓受戒などに代表される懺悔と見仏体験の関係について考えてきたが、関連する事例として戒律における肉食禁止規定をめぐる下田正弘氏の研究を参照しておきたい。

下田氏は、律典においては必ずしも禁止されておらず、病気の場合には薬として食することが認められたりもしていた食肉が、『涅槃経』をはじめとする大乗経典において禁止されるようになった理由を検討している。一般に肉食禁止は、不殺生戒との関連、すなわち生き物の生命を奪って食べることに対する倫理的な禁則であると考えられることが多い。下田氏は、そのような倫理的な側面に加えて、仏教教団がインドのケガレ観念に基づく「肉食忌避」というヒンドゥー化の流れと妥協したという社会的な原因など、さまざまな原因を推測しているが、本報告のテーマに関連して注目されるのは、生肉・生き血を興奮剤として用いる宗教者との接触が肉食禁止規定を生み出した、とする説である*9

仏教教団がはじまったころから、インドにはさまざまな宗教が活動していたが、その中には「生け贄を求める誓いを立てるような、オルギー的、呪術的宗教に取り憑かれた者たち」が存在した。このような宗教者と、仏教徒は阿蘭若処で接触し、あるいはその宗教者の一部が仏教に改宗して仏教教団の中に入り込んできたわけであるが、彼らの生肉・生き血による「狂気」に対して、それを拒否したり抑制したりするために肉食の禁止がうたわれるようになった、というのである。すなわち、肉食禁止規定の背景には、肉食による呪術的な陶酔という身体的な因果関係が埋め込まれていたのである。

3. 仏教は心の宗教か

3.1. 精神に回収される身体

前節で見てきたように、経典などに説かれる実践的な記事においては、合理的な説明や精神性などとは独立した身体的な現象があることを見出すことができた。(身心二元論的な見方でいけば)合理性や精神性は、身体的な現象との不安定な共存関係にあると言ってよいのではないかと思われる。妄想をたくましくすれば、激しい行や黒色の良薬によって修行者が何かの姿を目にしたとき、それを仏教的な枠組みの中にどのように回収するか、という問題が起きたとき、魔境であると否定してしまう場合もあれば(上座部や禅宗ではそのようにすることが多いという)、懺悔と滅罪という枠組みの中に落とし込むことで比較的安定した共存が可能になったと考えることはできないだろうか。そして、このように事後的に得られた懺悔と滅罪という枠組みが体験よりも先行するとしばしば顛倒され、「滅罪」を求めて観仏体験を行うという実践が定着するのではないだろうか。

しかし、文献学的な研究方法では、ひとつのテキストに複数の(あえて言えば)ロジックが併存しているということを認めようとせず、結果的に合理性によって身体的な現象を回収してしまう、ということをしてしまう*10。場合によっては、神秘体験は、しばしば心理的、霊的な体験として、しかも非常に高い評価を伴って説明されることが多いと思われる。たとえば先に取り上げた自誓受戒における観仏体験も、次のように解釈されている。

…自誓戒の瞑想体験は、意識下の深層領域から現れるイメージを経験することを意味する。第一章の神話の心理学の項でものべたように、自然発生的に起る幻覚や悪夢には、恐れ・憎しみ・性衝動といったくらい情動を伴うものが多い。ユングのいう「影」と「アニマ・アニムス」(エロス)の次元、つまりリビドやコンプレックスの投影像である。未開人の見る幻覚像にはこういう恐れや本能的衝動を伴ったイメージが多い。未開人は、感覚的意識が経験している「現実世界」の背後に、そういうイメージが投影された「背後世界」を想定する。神話では、この現実世界と背後世界とは未分化のまま経験されている。これに対して文明宗教は、現実世界を形而下的/世俗的次元とみなし、宗教体験を通じて感得される背後世界を形而上的・超越的次元として存在の段階を区別する。超越的次元とは、霊的体験・悟り・神仏の幻視などによって表現される領域である。瞑想修行によってそういう仏のイメージを感得する訓練は、心理学的にみれば、意識下のくらい情動の領域をのりこえて、魂のより深い層に潜在する人間の普遍的本性を示すヌミノーゼ的領域に近づくことを意味する。ユング流にいえば、太母、老賢者、そして聖なる次元を示す自己性(人間の本来性)などの元型的イメージを経験する体験である。そのような深い魂の経験は、感覚的世界や暗い情念の領域における経験とちがって、人間の心に澄明で崇高な感情をよび起こす。(叡山の籠山行における現代の修行僧たちの幻視体験の報告例は、この点で参考になる点が多い。)仏教哲学は、このような超越的次元に関する体験にもとづいて、世俗的経験の意味をあらためて問い直す企てである。

自誓受戒における瞑想経験は、このようにして、超越的次元から現れてくる仏のイメージと人間を結びつける。この考え方に従えば、戒とは、仏と人間の間に成り立つ心理的誓約関係である。言いかえれば、人間の側における救済願望と、これに応ずる仏の救済誓約のしるしが一致するところに、自誓戒が成立するわけである。*11

自誓受戒がある種の入門儀礼であることは言うまでもなく、その前提となる懺悔や好相行もまた、原則として入門者*12向けの修行方法である。『占察経』などと同様、「等分(≒貪瞋痴)及び餘の重罪を除滅する」ことを目的とした念仏三昧を説く『坐禅三昧経』においては、念仏三昧の行者は「初習行人」が主体であるとはっきり述べられている*13。上の引用では「霊的体験・悟り・神仏の幻視」と並列させているが、観仏体験の位置づけを無視して(あるいはあらゆる神秘体験をすべて「神秘化」して)このような解釈をする例は少なくないように思われる。

3.2. 心を組み込んだ身体

仏教は一般に心の宗教、心の哲学、心の科学(心理学)などと言われることが多いが、報告者は仏教において心の独立性、特権性はそれほど自明ではないと考えている。

たとえば唯識思想の場合、第八阿頼耶識は「深層心理」と説明されることが多い*14。確かに唯識の教理体系において阿頼耶識は「心王」に分類されており、「識」という言葉も通常は心的なものとして理解されているが、阿頼耶識は「心」なのであろうか。『成唯識論』などで阿頼耶識の存在証明を見てみると、非常に高度な瞑想状態に入り精神的な活動が消滅している(非想非非想処)ヨーガ行者が死なない(体温が保たれる)という理由によって、阿頼耶識の存在の証拠としている。これを現代的な概念に当てはめるとすれば、阿頼耶識は深層心理というより身体(の自律性)とする方が適切であろう*15(さらに言えば、阿頼耶識は認識対象全てを生み出すことを考えれば、現代の「世界」と言った方が適切である)。いずれにせよ、「識」を現代的な意味での「心」にあてはめるのは誤解を生みやすい。

仏陀の身体的な特徴として三十二相八十種好があげられる。これを神話的なものとして合理的に解釈することは容易であるが、仏陀という宗教的な完成を果たした証拠が身体に現れるという考え方はもっと注目されてもよいのかもしれない。先に、観仏体験は滅罪の理由にならないのではないか、ということを述べたが、このような解釈は精神的な実践がなければ懺悔にはならないということを前提とした身心二元論に基づくものであり、そうでない立場をとることによって(別の意味で)合理的に解釈できる可能性もあるだろう。

*1:これは実践論だけではなく、人物の思想的変遷などを検討する場合にも言える。一人の人物が矛盾する二つの「思想」を持つことは基本的には許されず、何らかの合理的な統一がどこかにあるはずだという前提で解釈がなされる。

*2:永観も重視していたようである。

*3:異香については船山徹「異香ということ」(『[asin:4585103619:title]』、勉誠出版、2008年)参照。なお、船山氏は、高僧の臨終の事例を検討することで「聖なる存在の来臨」を告げる「象徴的表現」と述べているが、好相行において異香は光明や涼風、音楽などとともに頻出する現象である。

*4:見仏体験をともなう自誓受戒に大きく関係する『大方等陀羅尼経』では、懺悔の方法を述べるとともに、その後の夢見をともなう「清浄戒」受戒を述べているが、そこでは仏菩薩ではなく父母や婆羅門などがあげられている。「善男子若有比丘毀四重禁、至心憶念此陀羅尼經、誦一千四百遍、誦一千四百遍已乃一懺悔、請一比丘爲作證人、自陳其罪向形像前、如是次第經八十七日勤懺悔已、是諸戒根若不還生終無是處。彼人能於八十七日勤懺悔已、若不堅固阿耨多羅三藐三菩提心亦無是處。又文殊師利云何當知得清淨戒。善男子若其夢中、見有師長手摩其頭、若父母婆羅門耆舊、有徳如是等人、若與飮食衣服臥具湯藥、當知是人住清淨戒。若見如是一一相者、應向師説如法除滅如是罪咎。」(T21, 656b-c)

*5:東大寺の場合、現代では観仏体験を必ずしも要求しないが、そのはじまりとされる実忠による兜率天参拝と生身の観音の将来譚(『東大寺二月堂縁起』)は、観仏の要素を多分に含んでいる。

*6:「五相」とは通達瑜伽心・修菩提心・成金剛心・証金剛心・仏身円満のこと。

*7:松尾剛次「夢記の一世界―好相日記と自誓受戒―」(『[asin:4642028307:title]』、吉川弘文館、2003年)

*8:体験だけが重要であるとすれば、練供養のような疑似的な観仏体験が何らかの効果をもたらすと考えることもできる。

*9:下田正弘「東アジア仏教の戒律の特色―肉食禁止の由来をめぐって」(『東洋学術研究』29-4、1990年)、同「阿蘭若処に現れた仏教者の姿―倫理的自制型と呪術的陶酔型」(『日本仏教学会年報』63、1998年)

*10:これに関連することで、たとえば『日本霊異記』の作者である景戒が自身の夢を観仏体験として解釈する能力が足りないことを嘆いて「天台智者の甚深の解を知らず」(下巻38縁)と言っていることに対して、法相宗から天台宗への転向だ、と解釈する研究者がいることを指摘しておく。ここでの天台大師智邈の位置づけは、懺悔や瞑想や占いの方法について実践的なマニュアルを残した先人としてのものであって、天台教学の大成者としてのものではない。

*11:湯浅泰雄『[asin:4839002495:title]』(名著刊行会、1990年)、229〜230頁。

*12:もっとも、菩薩になること自体をかなり高いハードルにしている経論もあるので、単なるビギナーではない点は注意。

*13:T15, 276a〜および清水乞「観仏から造仏へ」(『日本仏教学会年報』63、1998年)参照。ここでも、仏像を使った仏の姿のみをイメージする訓練の後、仏像のない場所でも同様のことができるようにするという念仏三昧によって、なぜ「重罪を除滅する」ことができるのかについては、明確な説明はない。

*14:井筒俊彦氏が「言語アラヤ識」と言語論的に解釈しているのも、同様ではないかと思われる。

*15:「識」という用語が持つ認識作用、分節作用を、「身体として阿頼耶識」において解釈する場合には、市川浩氏が言う「身分け」(身体による世界の分節化と、世界からの身体の分節化)という概念が参考になるかもしれない。