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選挙に行かない本当の理由

以下のエントリが盛り上がっている。

このエントリを読んで、たまたま最近読んだ柄谷行人『〈戦前〉の思考』*1に、こんな記述があるのを思い出した。

デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないことにあるのです。なぜなら、現実に存在する人々は、さまざまな利害の対立のなかにあるからです。議会とは、それらを調整する場所だといってもいいでしょう。そして、そこでは、公開的な討論を経て多数決によって「人民の意志」が実現されることになっています。しかし、ここに問題があります。それは、多数だからといって、それが真に人民の意志を実現するとはいえないということです。むしろ、少数者のほうがそれをあらわすということがありえます。(p. 49)

柄谷氏のこの議論は、ナチスドイツ時代の法学者カール・シュミットの『現代議会政治の精神史的地位』に基づいている。

現代議会主義の精神史的地位 (みすずライブラリー)

現代議会主義の精神史的地位 (みすずライブラリー)


シュミットは、「人民の意志」を実現する少数者、というより独裁者は、民主主義(「人民の意志」が主宰する政治)と矛盾しないし、多数決といういい加減な方法による議会制民主主義よりよっぽどいい、と主張している。多数決は「人民の意志」に近づくかもしれないが到達することは決してないからである。プラトン議会制民主主義が真理に到達しないのでダメ!と考え、哲学者=王による政治体制を主張しているので、そうとう古い問題である。政治家がしばしば使う「国民の声」やら「民意」というものの胡散臭さは、20世紀初頭にすでに喝破されていたのである。

では、「人民の意志」が実現する選挙とはどのような選挙か。シュミットは次のように言う。

人民の意志は半世紀以来きわめて綿密に作り上げられた統計的な装置によってよりも、喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである。

つまり、優れた独裁者を喝采によって迎えることこそが、民主主義=選挙のあるべき姿なのだというのである。そんなわけでドイツ国民はヒトラーを選出し、短期的には不況を脱したりするなど、それなりにうまいこといったのである。ありゃりゃ。

こんな書き方をするとどっちに転んでもダメな気がしてしまうが、少なくとも多数決型の議会制民主主義は、自分(=国民)の意志が実現しないのはイヤだ!というのさえ除けば、日本ではそこそこうまくいっているような気がする。日本は世界に冠たる経済大国でなければならない、というような、たかだか過去数十年ぐらいしかいたことがない地位をこれからもキープしようと思うのであれば(つまりこれからずっと、読売巨人軍のような国でなければやだ!みたいな考え方をとり続けるのであれば)うまくいかないように思うが。阪神、いや中日ぐらいの国でいいじゃん、とはならないのだろうか。

Peer Stress (内田樹の研究室)でも言われているように、だいたい会議というものには大きく分けて二種類ある。何かを実行するためのアイデアを出す会議と、それを皆で合意し共有するための会議で、選挙というのはたぶん後者に当たる。つまりそもそも選挙とは、「これからはこうしましょう!」というような「意志」を示す場と言うよりは、「それでやってみたら?」っていうような合意を形成するための場なのであろう。

逆にもし「国民の意志」を実現できるような制度がないとイヤだ!というのであれば、多数決の選挙とは別の制度を作れば(あるいは従来のアイデア形成的仕組みを拡充すれば)いいんじゃないかと思う。とは言え、私に何かアイデアがあるわけではない。うーん、たとえば、パブリックレビューみたいなのではなくて、ある程度の完成度の企画書を採用するような仕組みとか。

もっとも、そういう感じのうまい制度ができたとしても、やはり「自分=国民の意志が国政に反映されていない」と考える人はいなくならないだろう。多数決による選挙というものの意味を取り違えている人がいる限り。ということは会議とか民主主義という制度についてのリテラシーが必要ということか。しかし、そういうものを学ぶ場として、日本の小中学校などにおける学級会とか生徒会みたいなものって最悪だろうな。議長(学級委員長とか先生とか)が素案を作らないまま、いきなり「何か意見のある人はいませんか」みたいなことをやるんだから。

*1:[asin:406159477X:detail]