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中世日本の予言書

通勤のバス―と言っても10分ぐらいしか乗ってないのだが―の中でちびちび読んでいたのが読み終わった。

中世日本の予言書―“未来記”を読む (岩波新書)

中世日本の予言書―“未来記”を読む (岩波新書)

予言書の制作や解釈が歴史叙述の実践であることを繰り返し強調しているのがグッド。例えば「予言は事後になされる」という一節。

…予言は事が起きてしまった、事後にこそ問題にされるもので、事が起きてからその当否が問われるものなのである。我々は時間をさかのぼらせたり、くりあげたり、イメージのなかで自在に時を往き来させて、みずからを納得させているわけである。過去の出来事を今現在からふりかえり、その出来事からさらにさかのぼった時点から予見するかたちで先取りし、それが的中したことを確認し了解する。そういう回路を自然にたどっているのである。(pp. 3-4)

このような方法論的認識に立っているので、『野馬台詩』や「聖徳太子未来記」などの内容を紹介するだけではなく、それを生み出した宗教史的、思想史的状況(逃げ出す神仏などの言説)や、作者とされる宝誌和尚や聖徳太子に対する当時の認識、そしてこれらの書物を中世の読者がどのように能動的に読んだか、などなど、様々なコンテクストを細かく明らかにしていく。

この本では『法華経』などの経典もまた「未来記」的性格を有していると言うが、現在、大学院の授業で読んでいる『占察経』にも共通する。この偽経では、釈尊の時代の登場人物が、未来のかわいそうな衆生(つまり『占察経』の筆者であり読者)のことを思って釈尊に質問し、それを地蔵菩薩が答える形で占いの方法を教える、という体裁をとる。また、恐らく『占察経』を念頭に置いていると思われる『日本霊異記』の下巻三十八縁においても、自分が官位を得たこと(これは『占察経』的にはサイコロ占いでわかる業報のひとつ)から以前見た夢を前兆夢として解釈しようとしており、“事後的な解釈としての予言”という本書の考え方がばっちりはまるようなことをしている。本書は中世日本の話であるが、観仏・見仏の問題系をはじめとして、広く仏教史的な研究において役に立つだろう。同じ著者の『『野馬台詩』の謎』とあわせて、院生たちにもぜひ紹介したい。

『野馬台詩』の謎―歴史叙述としての未来記

『野馬台詩』の謎―歴史叙述としての未来記

また、本書は中世日本に限定することなく、所謂『ノストラダムスの大予言』をはじめとする日本以外の事例や、近世〜近現代における未来記の後継(オカルト系だけでなくSF小説もその流れに属する)まで、薄味ながらも配慮しているのがよい。近代と言えば私の『占察経』の授業でも、実はメインのテキストとして明治43年(1910年)に大日本予言学館図書部から出版された井出静海『占察善悪業報経講義』を使っていたりする(近代デジタルライブラリーで閲覧可能)。ちなみに内容は明代の注釈をもとにした(誤植が多いのに目をつぶれば)割とまっとうなものであるが、『占察経』のよい書き下しがないことに加え、真剣に「予言学」の構築を画策していた明治人たちが『占察経』に新しい命を与えようとしている様を少しでも感じてもらいたくて、これをあえて使っていたりする。