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絵と文字のあいだ

研究室の本棚を漁っていたら、昔買ったこんな本が出てきた。

文字をよむ

文字をよむ

九州大学文学部の入門的テキストのようであるが、各国の文字、古典籍、史資料、地図、絵画資料(の中の文字)などを読む、みたいなありがちな(第二外国語やら各学科への導入っぽい)章にまざって、そもそも文字とはどんなものか、みたいな話や、普遍言語計画の話、心理学的なアプローチによる文字認識の話なども載っており、各章は短いながらも全体としてなかなかおもしろそうなテキストである。

で、この中に木俣元一氏というキリスト教美術の先生による「絵と文字のあいだ」という章があって、そろそろ携帯電話の絵文字のUnicode登録をめぐる議論の動向 - もろ式: 読書日記の活字化の話も出てきているので、興味深く読んだ。木俣氏の考えはだいたい次の一文に集約されているように思う。

もともと文字とイメージは連続していたはずですが、近代では文字が書かれる空間とイメージが描かれる空間を対立するものとして、厳密に分けようとします。文字の透明性を高めてきた近代の印刷術も、このような傾向に同調するものと、とらえられます。しかし、文字から視覚的な影響力をどのように消し去ろうとしても、文字が見えなくならない限り不可能でしょう。そもそも、文字の透明性を高めようとする努力自体が、文字に視覚的な影響力がそなわっていることの逆説的な証しであるという見方もできます。(p. 254)

補足しておくと、木俣氏はイメージ至上主義ではないので注意。さて、この一文を読んで思い出したのは、この本である。

When Writing Met Art: From Symbol to Story

When Writing Met Art: From Symbol to Story

書記の誕生が絵画に影響を与え、逆に絵画も書記に影響を与えた、みたいなことが書かれた本である。書記の誕生以前は割と天地や左右が自由な絵が多いのだが、書記が誕生すると絵がリニアになっていったりするらしい。絵と文字の関係については、共時的な分析だけでなく、通時的な分析も可能なのだろう。

あと、木俣氏の議論では、ハートマークなどの(携帯電話的な意味での)絵文字、文字を使った絵である文字絵、そして文字を変形させたり(うなぎ屋の看板にある伸びた「う」など)極端に装飾したりすることで絵に近づけていった文字表現(これは何て呼ぼう)を、イメージと文字との中間にあるものとして同列に扱っている。これはこれで一定の意味があると思うが、逆に絵文字に関心がある人間からすると、これらの違い(例えば、言語との関係の違い)が那辺にあるのか考えてみたくもなる。