死者表象をめぐる想像力の臨界、ほか

北條勝貴さんよりご恵贈いただきました。ありがとうございます。

特に2番目の「死者表象をめぐる想像力の臨界」を興味深く読んだ。北條さんは〈言語論的展開〉以後の他者表象をめぐる様々な意見(物語り論、“物語りの外部”論など)を紹介しつつ、「死者=他者表象を生み出す想像力の限界と可能性」について考察している。まず、中国古代の資料「睡虎地秦墓竹簡」に書かれた「祟をなす死者への対応は祭祀と祓除の間で揺れ動いて」いる様を紹介したうえで、それが後世になって生者側の論理(死者は祭祀されたがっている、など)に回収される流れを追いかけている。このような回収に対する内田樹氏の批判*1を紹介しつつも、死者への伝統的なアプローチは、デリダの〈歓待〉*2のような自分を更新する他者を受け入れ、他者を自分側に回収しない実践にはなりえないだろう、と指摘する。

いろいろと問題意識が湧いてくる非常に刺激的な論文である。デリダの言う〈歓待〉は一瞬わかったような気にさせられるが、実践としてどのようなことが可能なのか、そもそもそんなものが可能なのか、歴史的にそんなことがおきたことはあったのか、みたいな問いは何度繰り返してもよいだろうと思う。〈歓待〉はエクリチュール≒コーラの持つ“絶対的な処女性”にも通じるのであろうが、自己をエクリチュール化するというのはあり得るのだろうか…云々。もう一度読みなおそう>〈歓待〉

*1:[asin:4260333666:detail]

*2:[asin:4782801270:detail]