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懺悔・占い・禅定・受戒

このあいだの水曜日、民衆宗教史研究会近畿支部例会で「懺悔・占い・禅定・受戒 ―『日本霊異記』下巻三十八縁の解釈を中心として―」と題した発表をしてきた。冒頭はこんな感じ。

従来、伝記や説話などに記録された宗教者の神秘体験については、心理学方面からのアプローチがいくつか見られる反面*1、文献中心の仏教学、仏教史などにおいては、研究対象になりにくいものとして「敬して遠ざけ」られてきたか、単なる印象論によって語られてきたように思われる。経典などに記されている神秘体験は、後の註釈者によって教理的に意味付けされることで文献学的な研究対象となりうるが、個人に起こった一回性の神秘体験は、思想史的に解釈可能な都合の良い形で現れることはむしろ稀(もちろん、後世にそのように改変されることはあるだろう)であろう。だからと言って個々の宗教活動の現場では、これらの体験を無視することができるはずはなく、様々な方法で解釈され「消化」ないし「廃棄」されてきたはずである。文献学的な研究によってこのような実践にアプローチするとするならば、神秘体験が起こり、また解釈される現場のコンテクストをできる限り文献によって再構築することではないだろうか。その際、固定的な解釈が可能なコンテクストよりも、複数の解釈が可能なコンテクスト(神秘体験解釈の可能態)が立ち現れてくるだろう。その複数の選択肢の中から、体験者あるいは解釈者が選んだ意味付けを明らかにすることによって、体験者や体験者が属する集団の主体性も見えてくるかもしれない。

北條さんの「説話の可能態」*2の神秘体験バージョンのつもり。北條さんの言う通り「一見盤石に映る〈書かれたもの〉の事実性は、実は、極めて曖昧かつ脆弱な基盤のうえに成り立っている」わけだが、これは宗教実践の現場で常に起こりうる神秘体験にもあてはまるだろうと思う。

ちなみに、「懺悔・占い・禅定・受戒」というのは、こいつらが仏教の修行においてワンセットになっている(いた)ことが割とはっきりとしてきたから。受戒をするためには懺悔をして滅罪しなければならないし、禅定をする際にも滅罪をしたり身体の不調を直したりしなければならない。過去にどんな罪を犯したかを知らなければ具体的な懺悔はできないが、そんなことを知ることができるのは如来や仙人などに限られる。また身体の不調を知ることも凡人には不可能だ。だから、夢占いをはじめとする占法(相法)によって知る必要がある。下巻三十八縁の観音の夢*3で重要な好相行も、広い意味での占法の一部(あるいはお隣さん)と言えるのではないかと思う。また『霊異記』で「天台大師の問術」などと言っているのは、このような仏教的な占法のことを指していると思われる…云々。

*1:[asin:4062561182:detail][asin:4130104039:detail]

*2:[http://blog.goo.ne.jp/khojo0761/e/58d4b945c84318ffca0fb32065e4f147:title]

*3:[http://moromoro.jp/morosiki/resources/200803Kannon.html:title]