石井公成さんより、聖徳太子関連の新聞コラムのコピーと論文抜き刷りをご恵贈いただきました。ありがとうございます。
- 石井公成「聖徳太子論の見直し」(1)〜(10)(『佛教タイムス』第2327〜2336号、2008年10月9日〜2009年1月1日)
- 石井公成「三経義疏の語法」(『印度学仏教学研究』第57巻第1号、2008年12月)
後者については、下の「(7) 三経義疏は中国製か」と内容がかぶるし、そのうちネットで読めるようになるので、前者について簡単に梗概をメモっておこう(以下のメモでは、石井さんの発言と私の発言が混ざっているので注意)。つっこみ大歓迎(私の勉強になるので (^_^;;)。
(1) 聖徳太子はいなかった?
シリーズ全体の導入:「実在したのは厩戸王という一人の王族にすぎず、聖徳太子と聞いて頭に浮かぶような聖人のイメージは、720年に完成した『日本書紀』の最終編纂段階で作り出されたものであり、聖徳太子は架空の人物なのだと主張」する大山誠一氏の聖徳太子架空説は、「実際は不確かな想像に基づくものがほとんど」である。
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聖徳太子と日本人 ―天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像 (角川文庫ソフィア)
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(2) 捏造は戒律違反
大山説では、『日本書紀』の聖徳太子関連記事は三論宗の道慈が書いたとされている。
しかし、森博達氏によれば、これらの記事には和習(日本人がやりがちな漢文の書き間違い)が多く、16年も唐に留学していた道慈の文章とは考えられない(このへんは「(7) 三経義疏は中国製か」や「三経義疏の語法」とも関連する)。
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また、道慈が属していた三論宗は、中国でも日本でも他宗を批判したり君主に従わない例が多く、道慈自身も『懐風藻』や『愚志』を見ると当時の権威や体制に批判的で、戒律遵守を主張していたことがわかる。そんな道慈が、藤原不比等や長屋王に命ぜられるまま、不妄語戒を破ってまで架空の人物像をでっちあげるだろうか。
(3) 儒教の聖人?
大山説では、律令制定の中心人物であった藤原不比等が、中国風な聖天子像に対抗して、儒教的な聖人としての聖徳太子をでっちあげたとする。
『日本書紀』において儒教風の聖人として描かれているのは「仁孝」「聖帝」と讃えられた仁徳天皇であるが、聖徳太子の記述においては「仁」「孝」が出てこない。『憲法十七条』は『孝経』の表現や図式を使っているものの、肝心の「孝」や「楽」が仏教の三宝に対する「敬」に置き換わっており、第一条の「無忤為宗」は成実師(三論宗の批判対象)の重んじていた徳目である。したがって、聖徳太子が「聖」であることは異様に強調されているものの、聖徳太子を儒教的な聖人として描こうとする意図はなかったと思われる。
(4) 道教の聖人?
大山説では、『日本書紀』の太子関連記述のうち道教的な部分は長屋王によるものとされている。
しかし、そのなかに純粋に道教と言える箇所はない。片岡山飢人説話は「道教風」な話かもしれないが、尸解は道教以前の神仙思想に見られるし、しかも聖徳太子が尸解をしたわけではない。「聖の聖を知ること、其れ実なるかな」という表現は類書である『太平御覧』巻401に類例が見えることから、太子関連記述を書いた人は隋唐以前の類書の「聖」の項目を利用して作文した可能性がある。
(5) 長屋王と道教
「(4) 道教の聖人」で紹介した大山説の背景には、新川登亀男氏の研究がある。この辺ですかね:
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しかし、新川氏が長屋王の道教信仰の根拠とする『大般若経』の奥書に見えるのは、神仙思想風な表現で美化してあるものの仏教的な内容である(これ以外にも新川氏の解釈には誤読が目立つ)。長屋王は唐に袈裟を送るなど仏教信者として有名である一方、道教に傾倒していたことを示す資料は残っていない。
(6) 伊予の湯岡碑文
大山氏が『日本書紀』以降の偽作だと断ずる推古朝遺文だが、後代の作が含まれているのは確かだが、そもそもきちんとした読解がなされていないというのが実状である。成立年代を論ずるのであれば、きちんとした読解が不可欠ではないか。
例えば「我法王大王」という表現が不自然と言われていた伊予の湯岡碑文は、「法王」の部分も含めて『維摩経』に基づいている(ので、不自然ではない?)。
(7) 三経義疏は中国製か
聖徳太子架空説の大きな根拠として、藤枝晃氏による三経義疏中国成立説がある。
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しかしNGSM*1という方法で分析すると、三経義疏は特異な語法を共有する非常に似た作品群であり、また倭習と似た誤用・奇用も多いことがわかる。したがって中国成立説はありえない。
また、推古朝の仏教研究の水準では、三経義疏のような本格的な注釈書は無理だと考えられてきたが、最近、天武・持統朝に活躍した百済からの渡来僧・道蔵の『成実論疏』の逸文が金天鶴氏によって発見され、水準云々の議論は白紙に戻ったと言ってよい。
※補足: ブックマークで「三経義疏は国産」と誤解されている方がいるが、石井さんが断定的に言っているのは「中国成立説はあり得ない」という点だけで、(「国産」が何を表すかにもよるが)「国産」で決定とは言っていない。渡来人による述作なども含めた再検討が必要。
(8) 美術史学の無視
大山説では美術史学の成果をまったく考慮していない。大山説では「天寿国繍帳」を光明皇后の情念の産物とするが、仏教美術がひとつのピークを迎える奈良中期に、わざわざ稚拙な絵柄を古い技法で刺繍させる必然性はない。
(9) 自分の状況を投影?
大山氏は『日本書紀』の聖徳太子関連記事を藤原不比等(儒教担当)+長屋王(道教担当)+道慈(仏教担当)の合作として考えているが、彼らが関わったことを示す史料はない。もしかしたら、大山誠一(政治史が専門≒儒教?)+増尾伸一郎(道教文化)+吉田一彦(仏教史)という大山氏の研究仲間の姿を投影したのではないだろうか。
道慈が『日本書紀』の編纂に関わったと主張した人に、井上薫氏、小島憲之氏がいる。また、小島憲之氏も、『日本書紀』が『金光明最勝王経』の表現を利用していると指摘する。
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両井上氏は、初めて日本に『金光明最勝王経』をもたらした道慈が、それを利用して『日本書紀』を潤色したとするが、道慈が『最勝王経』初伝であることを否定する研究者もいるうえ、小島氏が『最勝王経』的な表現だとしているのは推古紀以前の巻である。道慈が太子関連記述を書いたのだとしたら、推古紀だって『最勝王経』で潤色しているはずではないか?
※ 石井公成さんからのコメントにより一部訂正
(10) 聖徳太子はいなかった
聖徳太子が道慈らによる架空の存在だとすれば、太子関連記述に道慈の仏教観が反映されてよいはずだが、太子が『般若経』を重視したとか五戒を固く守ったとかいう記述はない。
それどころか、実は『日本書紀』には「聖徳太子」も「厩戸王」も出てこない。行信や光明皇后といった、大山氏が聖徳太子捏造に加担したとする人々に関する資料でも、出てくるのは「上宮聖徳法王」であって「聖徳太子」ではない。つまり、大山氏が聖徳太子捏造グループとしている人々の頭の中にも「聖徳太子」はいなかった?!……というような強引な議論と、同じようなことを大山氏はしているのではないだろうか。
*1:NGSMという方法については、拙稿[http://moromoro.jp/morosiki/resources/20020322moro.pdf:title=(PDF)「Nグラムモデルとクラスター分析を用いた漢文古典テキストの比較研究 ―『般若心経』の異訳の比較を例に」]や、『漢字文献情報処理研究』第2号所収の関連記事を参照。[asin:4872200519:detail]