花園大学での「情報と社会」という授業と、大谷大学(非常勤)での「人文学とコンピュータ」という授業で、以下のキーワードを知っていますか?以下のサイトを利用したことがありますか?というアンケートをとってみた(対象は文学部と社会福祉学部の1〜4回生)。この二つの授業では、一部同じテーマ(表象としてのコンピュータ)についてしゃべるのだが、そこで出てくるキーワードやサイトについてどれくらい知っているのか、あらかじめ知っておきたかったからである。結果は以下の通り:
キーワード | 知っている | 聞いたことがある | 知らない | 合計 |
---|---|---|---|---|
表象、表象文化論 | 4 | 17 | 66 | 87 |
エシュロン | 2 | 4 | 82 | 88 |
パノプティコン | 0 | 4 | 83 | 87 |
ユビキタス | 7 | 45 | 36 | 88 |
スモールワールド理論 | 1 | 6 | 81 | 88 |
GNU | 2 | 4 | 81 | 87 |
オープンソース | 7 | 35 | 46 | 88 |
Creative Commons | 3 | 14 | 71 | 88 |
サイト | 利用したことがある | 聞いたことがある | 知らない | 合計 |
---|---|---|---|---|
82 | 4 | 2 | 88 | |
mixi | 51 | 35 | 2 | 88 |
Wikipedia | 77 | 3 | 8 | 88 |
Youtube | 72 | 10 | 6 | 88 |
ニコニコ動画 | 42 | 34 | 12 | 88 |
授業でも指摘したのだが、Wikipediaをほとんどの学生が利用したことがある反面、GNUについてはほとんどの学生が聞いたことがない、ということは、GFDLについて知らないで利用しているということであろう (^_^;;
パノプティコンやエシュロンについては、『1984年』*1や『ゴルゴ13』の「神の耳・エシュロン」*2などを使いながら、すでに半分ほど講義をしている段階である。来週以降には、内田樹氏の陰謀史観をめぐる議論(「殺意ドーピング」)*3や、ポスター『情報様式論』に対する大澤真幸氏の批判的な解説*4を引きながら、エシュロンをめぐる言説を相対化するような話題を提示したいと思っている。
なお、後者に関する内容は一部、『日本史の脱領域』*5に書いた。その部分を、ちょっとコピペしておく:
過去の資料のデジタル化だけではなく、現代では人々の行動がリアルタイムでデジタル化されるようになっている。『記録を残さなかった男の歴史』*6という歴史書があるが、現代人である我々は「記録を残さない」ということができなくなってしまったと言っていいだろう。この世に生まれた時から(いや、生まれる前、両親が結婚し妊娠したころから)生年月日や性別、氏名、血液型はもとより、病気の有無、家族の年収などの情報までもがデータベースに記録され、コピーされ、売買され、流通し、死後も利用され続ける。定期券やクレジットカードにはICチップが埋め込まれ、自動改札機やATMなどネットワークにつながった端末を通じてどんな些細な行動でも記録され記憶される――たとえ本人がまったく記憶していなかったとしても。また携帯電話にはGPSが組み込まれ、人工衛星が持ち主の位置情報を常に把握するようになってきた。家電製品をはじめとするあらゆるものにコンピュータが入り込み(ユビキタス・コンピューティング)、冷蔵庫をいつ、何回開けたのかまでがデータベース化され、インターネットを通じてそのデータを利用することができるようになるだろう。これはSFでも何でもなく、ある人の行動範囲と購買履歴を記録してその傾向を分析し、その人がよく買う商品やブランドの店に近づいたら携帯電話にその店を告知するメールを送る、などというビジネス・モデルが実際に構想され、すでに実験が行われていることである。私有財産や個人情報の保護という立場からの抵抗によって、これらの情報がまったく障壁がなく流通することはないだろうが、少なくとも技術的には可能である(非合法であることさえ恐れなければいとも簡単に、中学生にでも傍受できる)し、「可能である」ということが人々の精神に影響を与えていることは間違いない。
このような状況を、かつてフーコーが近代社会の権力の隠喩と見た監獄・パノプティコンの理想化されたものと見なす論者もいる。フーコーはこのような権力が、やがて人間を身体の内面に向かわせ近代的な主体の確立を促すことになると予想したが、現実的にはむしろ逆の方向に進んでいるようである。オーウェルの『一九八四年』に描かれた〈偉大な兄弟〉による監視社会が到来するのでは、と危機感を煽る言論が盛んになされた通信傍受法案(盗聴法)についてのアンケートでは、「別に傍受されても困らない」という答えのほうが多かったという。我々の日常生活を振り返っても、コンビニエンス・ストアなどで買い物する際、いつ、どこで、何を買ったかなどの情報のほかに性別や年齢などの情報も入力されており、それがネットワークを通じて本社のホスト・コンピュータへと蓄積されているのだが――二〇代なのに四〇代と入力された場合などはともかく――記録されることそれ自体を不快に思う人は少ないのではないだろうか。それどころか、インターネット上に日記を公開する人が無数におり、中には自分の家庭内に小型カメラを設置してインターネット上で覗くことができるようにしている人もいる。また最近では、タレントや素人の生活にカメラが入り込んでそれを毎週観察するテレビ番組に人気が集まっているが、このようなプライバシーの露出行為は、日常生活の一部を物語化してそれを共有しようとする作業だと言えるだろう。おそらく人々は、日常生活の場面場面において記録されている「点」としてのデータには自己を構成する要素としての価値を見出しておらず、それが記録されることに何の抵抗も感じない反面、それらを物語へと編集したり、物語として見出される場に公開することによって、その時点での自己が発生し、価値が生ずることを直感しているのだろう。その意味で、大澤真幸氏が「強力なデータベースが、ある人生に生起したきわめて多くの出来事を記録にとどめていたとしても、それが他者の視線に触れるのは、そのデータベースに検索がかけられた場合だけである。検索は人生の中から、その度に、特定の項目に関与している部分を、他から切り出すことになるはずだ」と述べるのは慧眼であろう。データベースを検索したり分析したりすることは、物語性を欠いたデータの集まり(=歴史、共同体、世界)から、多様な物語の一つを切り取ることに他ならない。アクセス可能なデータベースが充実すればするほど、個人や共同体の多様性――別の言葉で言えば、分裂性、非連続性――が顕わになってくるのではないだろうか。これは現代だけでなく、精粗の差はあろうが歴史資料のデータベースでも同様だろう。そして、これらのデータベースを扱うであろう歴史家に必要とされるのは、データベースを物語化し、語るための技術と倫理ではなかろうか。
2003年頃に書いた文章だが、すでに現実とずれている部分もあるなぁ(涙)。